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zoom RSS 【CD評】ジョルジュ・プレートル指揮 シュトゥットガルト放送交響楽団 ブラームス 交響曲第1番 ほか

<<   作成日時 : 2017/01/15 16:04   >>

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ジョルジュ・プレートルが亡くなった。92歳だったそうだ。息長く活躍した指揮者だった。世評高い、マリア・カラスとの『カルメン』や『トスカ』は半世紀前の録音だ。直近ではウィーンのニューイヤーコンサートを振ったり、すっかり巨匠の仲間入りを果たした感があった。自分も一度VPOとの来日公演で実演に触れられたのは幸いだった。そんな折、ヴァイトブリック・レーベルから、プレートルのCDが3枚リリースされた。発売は随分前からアナウンスされていたが、結果として追悼盤になった。3枚とも購入して聴いてみた。このレーベル、時たまとんでもない放送録音を引っ張り出してくる。侮れない。

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3枚の中で圧倒的に名演なのは、ブラームスの1番だ。熱量がすごい。弦の厚みが素晴らしい。指揮台上で燃え上がるプレートルの姿が目に浮かぶようだ。シュトゥットガルト放送響とは深い付き合いのようで、プレートルの指揮に食らいついて弾きまくっている。

『新世界』も熱演だが、やりたい放題という感。「ライブの一発録りをそのままCDにしました!」ということに尽きる。客席のノイズが結構ひどいが、プレートルはおかまいなしで、己の解釈に邁進。フレージングやテンポの緩急など、どこの誰も思いつかないような独自路線で、好き勝手にやっている。フルートなどの木管の響きが、異様に硬質で、面白い。チェコ・フィルの牧歌的な木管とは対照的だ。カップリングで収録されているマーラーの『葬礼』は、異様に流麗なフレージングで、テンポの緩急がとにかく大胆。大編成のマーラーでよくここまでやる。

チャイコフスキーの4番は、この指揮者にしては大人しい方ではないか。一本筋が通った力演だが、そんなに印象に残らなかった。カップリングのビゼーは十八番だ思うが、こちらに関しては未聴。

思えば、故宇野功芳氏が褒めそやし、「巨匠・プレートル像」は、日本でも確固たるものになっている。火付け役となったのがウィーン響の2種のマーラー録音で、それが大絶賛されてから、随分とたくさんのCDが市場に登場した。「フランス音楽の大家」という固定的なイメージを覆すかのように、驚くべきドイツ音楽のレパートリーが次々登場して、度肝を抜かれた。ブラームスの交響曲ツィクルスも、今回の1番で完結。ベートーヴェン、そしてまさかのブルックナーまで出てきた。いずれも、再生装置にかけた瞬間にのけぞるような演奏だった(と思う)が、実はどれもあまり印象に残っていない。

肝心のウィーン・フィルとの実演はどうだったかと言われれば、当時の自分のブログを読み返す限り、結構良い演奏だったようで、それなりに興奮したみたいだ。ただ、演奏そのものの印象は、いまほとんど残っていない。一つ鮮烈に覚えているのは、ウィーン・フィルの面々が本気で弾きまくっていたことだ。ライナー・キュッヒルが見たことないほど張り切り、顔がゆでダコのように紅潮していた。兵庫県立芸術文化センターの4階席から見下ろしながら、びっくりしたことは覚えている。

実演と各種CDから思うに、この指揮者は「のせ上手」なのだろう。昔で言うところのミュンシュのように、リハと本番で全く違う手を打ってきたりするから、オケが手を抜けず、その緊張感が毎度の熱演につながっているのではないか。ひらめきや直感に長じた、徹頭徹尾の「ライブの人」だったのだと思う。

逆に言うと、プレートルの音楽には再現性がない。CDを繰り返し聴きたくなる演奏ではない。そしてプレートル自身、そんな再現性に、何の思い入れも関心もないのではないか。「いまこの瞬間全力を出し切ればいい」という開き直りと割り切りこそが、プレートルのプレートルたる所以だと感じる。そして、その開き直りこそ、毎度、高い熱量の力演を生み出す原動力になっているのだろう。

だから、プレートルのレアなレパートリーの録音を捏ねくり出してきて、細部の奇抜な解釈を微細にウォッチしながら、分析的にその演奏を論じることには、そんなに意味がないのかもしれない。プレートルの録音を聴くときは、あくまで、ウィーンの、パリの、そしてシュトゥットガルトのホールで催された演奏会の追体験として、一回きり、ぶっ通しでその音楽を聴いてみて、印象に残ったか、残らなかったか、そういう聴き方をするのが向いている。客席のノイズなんて気にせず、演奏のムラ、細部の詰めの甘さ、技術的なミスも気に留めず、そして、珍奇な解釈一つひとつに目を奪われていても仕方がない。とにかく、「ドーン」と心を解放し、先入観を持たずに聴いてみるだけ。プレートル自身も、そういう聴き方を望んでいるのではないだろうか。

大指揮者であることは疑う余地がないが、クナッパーツブッシュやシューリヒトの再来みたいな、そういう変な色眼鏡でプレートルを見るのは、どうも筋が違うのではないだろうか。感興の赴くままに音楽をやる、「ライブの人」が亡くなった、そう思いながら、未聴の楽曲を聴いてみることにする。

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