酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

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zoom RSS シルヴァン・カンブルラン指揮 シモーネ・ラムスマ(Vn)読売日本交響楽団 2/5

<<   作成日時 : 2017/02/05 17:16   >>

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おそるべき音楽シーンにきょうも居合わせてしまった。コンサートの度に衝撃を受け続けている自分は感性のハードルが低すぎるのだろうか、いや、やはりきょうの爆演はあまりに衝撃的だ。自分が知っているチャイコフスキーとは全く別物だ。あまりに個性的な音楽づくりに、終始仰け反りっぱなしだった。

【前半】
・チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
(Vn:シモーネ・ラムスマ)
【後半】
・チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調

前半のコンチェルトは、オランダ人の若手女流ヴァイオリニスト、ラムスマが弾いた。全く知らない人だったが、この奏者には大家の片鱗がある。非常に個性豊かで、「聴かせる」パワーに満ち溢れた人だ。音色はきわめて濃密で、若かりし日のムターのようだ。聴いたこともないような音を次から次に繰り出す。音の引き出しがふんだんなのだ。音量があり、きょう座った3階席後方までストレートに音が飛んできた。チャイコフスキーのコンチェルトのような、手あかにまみれまくった大名曲で、文字通りの「個性」を発揮し、聴かせるのは至難だ。だが、ラムスマにはその力がある。多少の技巧的な瑕疵をものともしない、素晴らしい思い切りの良さがある。ソロの存在感がある。この持ち味を極めていけば、必ず、世界の第一線で輝き続ける大ヴァイオリニストになる。きょうの演奏を聴いて確信した。

後半の交響曲は、あまりにも個性が際立っているので、戸惑いながら、でもあまりにも個性的で面白いので、その大爆音に揺さぶられながら、脳ミソを空っぽにして聴いた。カンブルランを聴くのは3度目くらいで、先日『ザ・グレイト』の風変わりな実演を聴いて「変わった演奏をするもんだ」と不思議に思ったが、きょうのチャイコフスキーはちょっと想像を絶していた。

とにかく、弦も、管も、スコアのどこに埋もれていたのか分からないようなフレーズを考古学者のように発掘してきては、研磨をかけてピカピカの展示品に仕立て上げ、音楽の最前面に立ててくるのだから、当惑する。「え、こんな音あったっけ?」という音が、埃にまみれたこの大交響曲の中から、わんさか出てくるのである。フレージングも、「これカラヤンがやってたよね」とか、「ムラヴィンスキーのマネしてるな」みたいな、オタクの詮索が全く機能しないユニークなもので、とにかく、聴いたことがない節回しが連続するのだ。まさに、劇的ビフォーアフター、といった具合だ。

輪をかけて恐ろしいのは、読響が「完璧すぎる」のだ。寸分のズレも違和も許さんとばかり、恐ろしいまでに計算されつくさらた音量とテンポで音楽をする。怖くなるほどだ。そして不思議なのは、全員がトゥッティで大合奏をしても、音が「溶け合わない」、つまり、ハーモニーにならないのだ。これは批判ではない。ハーモニーにならないからこそ、この大交響曲が、全く新規な音楽になるのだ。マンネリにウンザリした聴き手に衝撃を与えるのだ。これはカンブルランの嗜好かもしれない。とにかく、金管は金管で浮き立ち、弦は弦で独立し、それぞれの旋律線をバランスの妙味でそれぞれ際立たせる。そういう意味でいうと、ブーレーズ的だ。

だが、むしろ、カンブルランの音楽はチェリビダッケ的だと感じたのだ。テンポは遅くないのだが、とにかく全ての音が、フレーズが、作為的なのだ。これは批判ではない。チェリビダッケの音楽は、「人工美の極致」と言われるが、きょうのチャイコフスキーもまさしくそうだ。とにかく作為的であり、人工的だ。しかし、その幾多の「仕込み」の先に、圧倒的な美の構造物が生み出されるのだ。「結果が美しければ、それで良いではないか」という人には、これ以上ない大名演であるに違いない。個人的には、きょうの演奏に「人間・チャイコフスキー」はほとんど感じなかった。昨日のサラステが描いて見せたような、不器用な男の肖像は、全く浮かんでこなかった。ただ、あまりに新規な解釈と、その瞬間に生み出される圧倒的な音楽表現に驚嘆し、有無を言わせず大きな拍手を送らざるを得なかった。あまりに不思議な音楽体験だ。

帰り際、「カンブルランはフランス人だから、フランス的な軽い演奏だったよね」と言っている人がいた。正直、全然違うと思った。オケの統率という点では、むしろ旧ソ連的な気配すらある。ただ、やはり「チェリビダッケ的」というのがすんなり来る。細部を極大化する。対旋律を主旋律化し、主旋律を対旋律化し、全ての旋律線を等価化してみたりもする。そして、それは「遊び」ではない。ど真面目な「音楽」として、徹底されている。

在京オケを改めて俯瞰すると、それぞれ個性が際立ち、またそれぞれが第一線級のシェフを招いてビルドアップされており、百花繚乱の様相を呈する。素晴らしいことだ。だが、その中でも個性が頭抜けているのが、カンブルランと読響コンビではないか。「チェリビダッケ」と言ったら「ミュンヘンフィル」とおうむ返しで答えが返ってくる、もはやそんなレベルのコンビネーションではないか。「カンブルラン」と言ったら、「読響」。それは、カンブルランの意図するところが、オケに血肉化されている、という意味も込めている。彼らにとって、信じるところはスコアしかない。そこに書かれてある音楽的符号こそがすべてだ。神は他にはいないのだ。カンブルランが過去のレコーディングでこの曲を聴きこんでいるのか、そしてリハでどこまで作曲家の生い立ちに触れているのか、その辺は分からない。しかし、音楽を聴くかぎり、そんなことはどうでもいいかのごとく、スコアが絶対化され、音楽そのものにしか意味がないという確信を感じる。ここまでの思い切りの良さに、自分は心からの敬意を抱く。

だから、聴きなれたレパートリーが今後プログラムに並んでいても、このコンビなら聴きに来たくなる。これは、オケにとっても「してやったり」ではないだろうか。

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