酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

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zoom RSS マーク・パドモア(T) ディル・フェルナー(Pf) 『冬の旅』 2/14

<<   作成日時 : 2017/02/14 22:34   >>

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最近絶賛評を連発しまくっているが、きょうの『冬の旅』を聴いていて、魂が凍りつきそうになった。現代を生きる我々に、グサグサと音を立てて突き刺さってくるような、残酷極まりない音楽ではないか。心をかきむしられるような苦しさを感じ、よろめきながら会場をあとにした。

・シューベルト 歌曲集『冬の旅』

リートの実演は大昔にマティアス・ゲルネのシューマンを聴いて以来で、かなり久々だ。ふだん自宅でもほとんどリートは聴かず、『冬の旅』も久しく聴いていない。シューベルトのリートというと、一昔前の“教養主義”の怨念がムンムンとまとわりついているような先入観があって、どうも素直に聴けないのである。「きみぃ、シューベルトは聴くのかい?」「もちろん聴くよ、ボクはディースカウの『冬の旅』が好きだ。」「そうかい、実はボクは『冬の旅』は暗くてダメでねぇ。ぜひ、ヴンダーリヒの『美しき水車小屋の娘』を聴いてごらんなさい。とても良いよ。」という、独文学生たちの鼻持ちならない会話が、勝手に脳裏に浮かび上がってきてしまうのである。大いなる偏見なのだが…。マーク・パドモアとディル・フェルナーというコンビなら、「ディースカウ&ムーアできまり!」というくだらない啓蒙主義と訣別できる演奏を聴かせてくれるだろうと、みなとみらいホールへと足を運んだ次第である(ちなみに、元日銀総裁も聴きにきていた)。

第1部は、ほとんど何も感じなかった。やや退屈した。パドモアはバッハの歌い手で有名で、ノン・ビブラートの澄んだ声を聴かせるが、そんなに効果を上げている気もせず、フェルナーのピアノも、「まぁこんなもんだろう」という想像の範囲内。

ところが、第14曲の「白髪」で心を鷲掴みにされ、凍りついてしまった。霜で髪が真っ白に染まり、「老人になったようだ!」と無表情で喜びを歌うパドモアに戦慄した。あぁ、虚しい、なんと虚しい、そしてなんと率直な心の声なのだろう。何のために生きているのか分からない青年が、早く死んでしまいたいと思いながら、死ねない苦悩を引きずって、ただただ旅に明け暮れる、そのニヒリズムが、身体を突き刺してくる!

「カラス」「道しるべ」「宿屋」「勇気」と、曲が進むに連れてますます深まる青年の孤独が、聴いているだけで辛くて苦しくてしかたない。宙空の一点を凝視しながら絶唱するパドモアの狂気は何かに取り憑かれたようだ。絶望しながら放浪を続ける青年の魂が、完全に憑依している。

そして、「辻音楽師」を聴きながら、ついにみずからも奈落の底に突き落とされるような絶望を味わった。フェルナーの伴奏は怜悧な刃物のように空気を切り裂き、青年をどん底へと突き落とす。シューベルトの音楽はどうしてこんなに暗いのだろう!

ミュラーの歌詞は、恐ろしいまでに現代の日本をも照射している。歌詞に描かれた当時のヨーロッパは、まさに産業革命の真っただ中だった。徒弟制度のもとで受け継がれてきた手工業の伝統が、オートメーションによって破壊し尽くされていた。「働く意義」を見失った若者は、旅に出て、人生の意義を探すが、何一つ見つからない。自己との対話を繰り返せば繰り返すほど、ますます「生きる意義」なんて何にもないのではと、疑念が深まる。何もかもに絶望した若者の目に、最後に入ってきたのは、ただただライアー回しを続ける、辻音楽師だった。何の意味もなく、ただただライアー(手回しオルガン)を回し続けるだけ。「そうか、人生なんか、もともと何の意味も無いかもしれない。ライアーを回していれば、気も紛れる。クルクルとライアーを回していれば、時間も過ぎ、そしてそのうち死んでしまう。人生なんてそんなものなのかもしれない。いや、そんなものなのだ!」。

私には、この世界観が、AIに労働を代替させていこうという今の世の中とダブって仕方がない。必死に勉強して、やっとの思いで就職し、なんとか暮らしを立てようと働いて、ふと立ち止まったとき、「何のために働いているのか?」という残酷な問いが、突如として頭をかすめる。だって、その労働は、AIがやっても成立するのだから。労働の意味が無化された瞬間、「何のために働いているのか?」という問いは、「何のために生きているのか?」という冷厳な問いに、瞬時に姿を変える。手に職つけようと突っ走ってきたそれまでの人生は、壮大な虚構だったのではないか?自分は、自分自身を欺きながら生きてきただけではないか?生きている意味はなんなのか?どうせ死んでしまうのに、どうして生きなければならないのか?…。

世の中の仕事の半分はロボットに変わってしまうかもしれないという。それなら、今の世の中、みんなライアー回しではないか!ただクルクルとライアーを回して「施し」をもらって食いつないでいるだけではないか!そして、その「施し」で消費活動をして、ただただ気を紛らわせて生きているだけではないか!…きょうの『冬の旅』を聴きながら、そんな絶望的な気分に陥ってしまった。

『冬の旅』を聴いていると、またまた星野源の『恋』の歌詞が思い浮かんできた。「営みの街がくれたら色めき 風たちは運ぶわ カラスと人々の群れ」。なんと、ここにもやはり「カラス」が登場する!「人々」と「カラス」を並べる、嫌味なまでに痛烈な皮肉! 星野源はさらにたたみかける。「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ 」。ここまでくるとニヒリズムだ。意味を考えずにただ暮らす人間(=カラス)を、冷酷に突き放しているのだ(と私は確信する)。そんな歌詞の意味を知ってか知らずか、世の中のサラリーマンやOLたちは、このニヒリスティック極まりない歌詞には目もくれず、アホみたいに「恋ダンス」とか言って、忘年会で上司たちの前で踊り狂っているのである。あぁ、なんとバカらしいのだろう。彼らこそライアー回しではないか。そんなことしている暇があるなら、即刻忘年会なんか切り上げて家に帰って、スピーカーの前で金縛りにあったよう『冬の旅』を聴き、人生に絶望してもらいたい!!

意味不明なことを書き連ねてしまった。しかし、今日の演奏は、そんな深い深い余韻をもたらしてくれる一大ドラマだった。「爽快」とは真逆の読後感だが、こういう体験ができるのも、一流演奏家のコンサートならではだ。

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