酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

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zoom RSS 【雑記帳】『冬の旅』その後 〜 「私」とは何かを考え続けている

<<   作成日時 : 2017/02/17 20:58   >>

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先日『冬の旅』を聴いてから、現代社会への強烈な違和感が、まさに「カラス」のように、頭の中でクルクル飛び回っている。『冬の旅』で若者が死ぬ気で悩み抜いた「生きにくさ」や「むなしさ」が、いまの日本ではあまりにも意図的に隠蔽されきっている気がするのだ。社会が欺瞞で溢れかえっている気がするのだ。「見たくないものは見ない」、「知りたくないものは知らない」、「考えたくないものは考えない」、これが隅々まで徹底されている。ハイデガーがdas Man(世人)と呼んだものは何かが、少し見えてきた気がする。

私は日常で、そんなdas Manによるいわれなき「暴力」に苦しめられている。去年、やむにやまれぬ事情があり、フェイスブックというものに形だけ登録した。登録するや否や、しばらく何の音沙汰もなかった大学時代の同級生から、突然「友達申請」が来た。仕方なく「承認」したが、激しく後悔した。毎日のように、自分が食べたランチやディナーの写真を、その都度アップするのだ。そこには必ず、「サクッとランチでイタリアン、美味しかった〜」と、ゴミのような投稿が付言されている。そして(私の設定の仕方に問題があるのだろうが)、彼女がそのゴミのような投稿をアップするたびに、「◯◯さんが近況をアップしました」という告知メールが届く。しかも朝届く。寝ている枕元で携帯の受信音が鳴り、叩き起こされるのである。私は身体中からあらゆるエネルギーが脱力するのと同時に、今度は恐るべき怒りのエネルギーが身体の奥底から込み上げてきて、すっかり目覚めてしまうのである。

この怒りの正体は何なのか。まず、昨日彼女が何を食べたかは、地球の裏側の天気予報がどうなっているか以上に、心底どうでもいいことである。そんな情報を一方的に強制通知してくることは、立派な暴力である。仮にそこに、以下のような情報が付言されていたとしよう。「きょう仕事で上司に罵詈雑言を浴びせられた。私は自分の無能さにうすうす気づいていたとは言え、脳天を撃ち抜かれるほどショックを受けた。あまりのショックに、親しい(と思い込んでいた)何人かの同期にそれを話すと、『それはお前が悪いだろ』とつれない反応。ショックのあまり、1人で汚い飲み屋に入り、ビールと土手焼きで悲しみ流し込んだ」。こういう話なら、私は10秒ほどの時間を割き、その状況に思いを致してあげるかもしれない。しかし、実際には、前後のコンテクストが一切割愛された、ただの点としての食事の写真が送りつけられるだけであり(しかも大して美味そうでもない)、受け手としてどう捉えて良いのかが、何一つ分からないのである(アップしている本人としては、閲覧者に「何を感じて欲しい」という期待なんて無いのだろうが、だからこそ暴力的なのである)。

このケースと通底する(と思われる)別の事例。先日、本を携えてカフェに行ったら、近くの席に座っていた大学生と思しき女性が(彼女も何度も手元のケーキの写真をカシャカシャ撮っていて耳障りだったが)、あまりにもくだらなそうなタイトルの3流小説を、ブックカバーもせずに、ソファーに腰掛けながら堂々と読んでいるのである。私は、公共空間で、表紙も隠さずに堂々と本を読む人の神経が全く理解できない(私の本はカバーで完全防備されている)。周囲にいる人に、「私はこういう本を読む人間です(=ただのバカです)」という、非言語のメタ・メッセージを送りつけることになるからである。こちらとしては、目の前にいる、得体の知れない、全くどうでもいい人間のことを、何秒間か想像しなければならないのである。これも立派な暴力だ。むろん、3流小説を好もうが、それ自体まったく問題がない。3流小説を読む「私」を、公共空間で、マスに対して、非言語的に発信し続けてしまう感性の乏しさと頭の悪さに、ため息が出てしまうのである。

そんな怒りを募らせカフェを後にし、銭湯に行ったら、そこにも湯船で堂々とエマニュエル・トッドを読む(ポーズにふける)御仁がいた。悲しいかな、「仕事が終わってもトッドを読みながら自己研鑽に耽っているオレ」を承認して欲しいという不純な動機(本人は無自覚かもしれない)が見え透いていた。トッドがその名を賭けて訴えたかった現代への警告が、まさに湯船の湯のごとく、彼の頭の中からこぼれ落ちるサマが、痛々しくさえあった。

長く書き連ねたが、フェイスブックのゴミ投稿も、表紙を隠さぬ読書も、「過度な承認欲求」の悪しき産物だ。「私」(しかも、恐ろしいほど低俗で低レベル)をとりあえず晒しておけば、きっとみんなが自分のことに興味を持ってくれ、理解してくれ、分かってくれる、という怠惰な甘えが見え透く。そこで提示される「私」は、「どんな商品を選びとったか」という、最低レベルの自己表現(個性の発露)でしかない。解釈のしようによっては、「こんなものしか選びとれない私」という眼差しが向けられるかもしれない。彼(女)は、果たしてそこまで考えているのだろうか? そして何より、その「私」には、実は、誰も「まったく」興味を抱いていないのである。むしろ、憐憫の目で見ているのである。なぜ、彼(女)は、そこまで社会を〈信頼〉しきっているのだろう?

さらに言えば、現代において、様々な場面で発露される「私」とは一体何であろうか。「私」を「私」として規定するもの、おそらくそれは、「カフェに行く私」であり、「Aというケーキを選びとる私」であり、「ケーキの写真をアップする私」であり、「みんなから『いいね』を押される私」であり、こうして「私」が〈実体化〉されていくわけである…が、なんと空虚なことであろう! そんな「私」など、ゴビ砂漠の砂のように、あっという間に大空に吹き上げられ、あっという間に消えてなくなってしまうかもしれないのに。

不思議なことに、現代において発露される「私」は、あらゆる場面で「苦しんでいない」。いや、厳密に言うと、「苦しんでいるところを見せない」のである。『冬の旅』での青年の絶望は、現代の「私」から見ると、青臭くて鼻をつまみたくなるのだろう。「生きる意味とか言ってんじゃねぇよ」と、一蹴したくなるのだろう。しかし、『冬の旅』の青年は失恋し、いわば「自分探し」の旅に出た、現代のどこにでもいそうな若者である。そこで、世間の数々の欺瞞を目にし、ついには「死んでしまう自分とどう向き合うのか」と絶望したのである。この「自分が死んでしまう事実」というのは、洋の東西を問わず、いつの時代においても、究極的な真実である。あらためてハイデガーを持ち出すまでもなく、哲学者は、文学者は、そして他ならぬ音楽家たちは、この「死」を起点に、また「死」の影を背後に忍ばせながら、「生」に向き合った。そして、徹底的に思いつめた先に、生々しいまでの「私」の発露が可能になったのである。

こんなことばかり考えていると、「偏狭な人間」だとか「精神異常者」と言われそうだが、そう言われてでも、自己欺瞞的な生き方をしたくない、と最近強く思うようになった。そして、そういう自分をとりあえず〈包摂〉してくれている(一定の)社会には、それなりに感謝しながら生きているつもりである。

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