酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

アクセスカウンタ

zoom RSS 【CD評】ラファエル・ブレハッチ バッハ・アルバム

<<   作成日時 : 2017/03/25 12:16   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

この間のシフのリサイタルは素晴らしかったなぁと、つぶやき続けている。どれもが珠玉の演奏だった。何より、そのピアノの音が充満する「空間」が、あまりにも上質で豊かだった。あの夜、大都会の一角の、照明が極限まで落とされた夢幻的なコンサートホールに、星がきらめくような清澄なピアノの音が響いていた。その記憶を、いくらでも味わい尽くしていられる。

当夜のアンコール『イタリア協奏曲』には酔いしれたが、最近、シフとはまったくタイプの異なる、恐るべき同曲の名演のCDがリリースされた。2005年のショパンコンクールの覇者である、ラファエル・ブレハッチによる「バッハ・アルバム」である。

画像


選曲も素晴らしいが、とにかく驚異的に鮮烈で躍動的なバッハだ。モダン・ピアノでバッハをやるのなら「こうでなければ!」と快哉を叫びたくなる、恐ろしいまでの機能的なバッハなのである。

試みに、『パルティータ第1番』を聴いてみて欲しい。スピーカーから火花が散るように、圧倒的なスピード感と立体感で駆け抜けていく、澄み切ったバッハの音楽!この世のものとは思えないほど美しく、情熱的である。むろん、『イタリア協奏曲』も胸をすく大名演。

バッハのピアノ演奏というと、おうむ返しのようにグレン・グールドが想起される。グールドは膨大なバッハの録音集成を残しており、たしかに『ゴールドベルク変奏曲』の新旧両版などは奏者の年輪をも感じさせて素晴らしい。でも、自分はグールドのバッハ、さらに言うと、グールドの音楽がニガテだ。あまりにもグールドの個性が際立ちすぎ、原曲がどんな音楽か、よく分からなくなるからである。自動ピアノのように、音価がキレイに刈り整えられた粒立つタッチは魅力的だが、聴いているうちに辟易してしまうのである。昔はモーツァルトのソナタ集を聴き込んだが、今はさっぱり聴かなくなってしまった。

さらに、チェンバロやハープシコードなど、古楽器演奏はどうか。一昔前のコープマン、最近ではルセ、シュタイアーといった弾き手のバッハはそれぞれ魅力的だ。ただ、ピアノの魅力に比べると、あまりにも「地味」なので、かなり食わず嫌いをしてきた。要は、「抹香臭い」感じがしたのである。

ところが、最近嗜好が変わってきた。最近新譜で出た、エガーのパルティータ全集を聴いているけど、なかなか素晴らしい。この心持ちの変化は何だろう?前まであんなに「抹香臭い」と思っていた古楽器のバッハを、どうして素直に聴けるようになったのだろう?

転機は、バッハの『無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ』をこの冬集中的に聴いたことにあったと思う。第2番のパルティータの持つ強烈な磁場のような魅力に金縛りにあい、シャコンヌの終曲に到達するまでの奔流のような「音のドラマ」に、圧倒され続けた。ヨーゼフ・シゲティ、アルテュール・グリュミュオー、サルバトーレ・アッカルド、ウト・ウーギ、チョン・キョンファ、五嶋みどり、ギル・シャハム、セルゲイ・ハチャトリアン、庄司紗矢香…文字通り貪り聴き、全ての奏者の表現がまったく違い、全ての表現に感動した(唯一全く感動できず、むしろ不快感と嫌悪感を抱いたのは、ギドン・クレーメルの「大名盤」)。

『無伴奏』が与えてくれた示唆は、どれだけシンプルであっても、音楽は感動をもたらしてくれる、という、当たり前のファクトだった。ただ、このファクトは自分にとっては当たり前ではなかった。以前は、音楽に、もつとずっと外形的な「感動」を求めていた。フル・オーケストラの、爆発するようなゴージャスなフォルテシモ。目が追いつかなくなるような、ピアニスト・ヴァイオリニストの超絶技巧。コロラトゥーラ・ソプラノの、超音波のような高音。それぞれにそれぞれの魅力があるが、今思えば自分はまだまだ感性に「余白」があった。

ミニマリズムというムーブメントがある。何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、最小限の食器と家具だけが揃えられた無機質な部屋で生活しているミニマリストの映像を見て、ゾクッとする違和感を覚えたことがあった。ただ、そのミニマリズムの思想を、文字通り、ミニマリズム的に余計なものを削ぎ取って解釈したときに、それなりに共感できる部分が見つかってきた。現代社会には、とにかく「いらないもの」が多すぎるのである。虚飾が膨張しているのである。虚像が実像化しているのである。私たちは、日々せっせと、その虚飾と虚像を自らのうちに取り込み尽くして、食べ尽くしている。それは内的命令のようでいて、実は「ああせよ、こうせよ」という社会の外的命令に追従しているだけなのである。そうこうしているうちに、私たちの暮らしに、日常に、人生に、「いらないもの」「くだらたいもの」「邪魔なもの」が、垢のようにこびりついてしまっているのである。これは、物質的な面でも、観念的な面でも、である。

思えば、バッハの『無伴奏』を聴く作業は、自らの日常と観念にまとわりついた「垢」を徹底的に削ぎ落とし、感動を求心し、内的命令を発見する、「リセット」とプロセスなのだと思う。外的命令に知らず知らずのうちに追従してきた私にとって、結構ハードルが高い作業である。「感動しなければ」という命令を一切謝絶し、文字通り「心を無にして」、タブラ・ラサで、音楽そのものを、それ自体を、聴く。パルティータ第2番の冒頭の、ふと立ち上るような短調の旋律が、ヴァイオリニストの息づかいとともに、心を揺さぶるのだ。こういう時に、ようやく「心」を感じる。自分の感性は死んでいなかったのだ、と思う。

同様に、チェンバロのバッハも、今は好きだ。エガーの新譜の『パルティータ全集』を聴き込んでいる。それに、スカルラッティの斬新な音楽も、改めてすごいと思う。何より、大バッハが生きた頃、人々にとって、「感動」をもたらす音は、これだった。17世紀の人が感動できた音に、21世紀の現代人が感動できない理由はない。その間の文明的な進歩は恐ろしいが、生き続けている「人間」それ自体は、何ら変わっていないはずだからだ。紀元前、アテネやローマで観照にふけっていたソフィストたちの思索の体系に、未だに多くの人が人生の示唆を仰ぐ。「真理は何か」「善く生きるとは何か」「死とは何か」。彼らの問いは、あらゆる雑念と邪念をふるい落とし、核心を目掛けて猛進する。その核心は、私たちの現代の生においても、言うまでもなく核心なのである。

改めて。ブレハッチのバッハはすごすぎる。言うまでもなく、アンドラーシュ・シフのバッハは無条件に良い。昔、「無人島に持って行くなら?」と問われたシュワルツコップが、セルのワルツ集のCDを挙げたという逸話があった。くだらない質問だが、今の自分が答えるとしたら、このブレハッチのバッハ・アルバムと、シフの『ゴールドベルク変奏曲』(新盤)、それと、ギル・シャハムの『無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ』だろうか。こうなると、インバルとノットとマーラーも持って行きたいし(無人島だったら、人目を気にせず大爆音で聴ける)、ジャック・ルヴィエのラヴェル・アルバムも捨てがたい。ショパンだったら、やはりマガロフのボックスだろうか。いや、やっぱり贔屓のチョ・ソンジンだな。モーツァルトは、やっぱりアバドの『フィガロの結婚』かなぁ…。取り止めがなくなってきた。やはり質問がくだらないのだ。そもそも、無人島には、「電源」がない。


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
【CD評】ラファエル・ブレハッチ バッハ・アルバム 酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる