酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

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zoom RSS 新国立劇場 『フィガロの結婚』 4/26

<<   作成日時 : 2017/04/26 20:24   >>

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大感動してしまい、涙が止まらなかった。『フィガロ』は人類の宝であり、人間が結晶した宝石だ。美しく、憂いを帯び、はかなく、しなやかで、力強く、アイロニカルで、シンプルで、シンフォニックで、ドラマティックで、かつ最高に人間的なのだ。きょうの舞台は、オーケストラ、歌手、演出、すべてが高水準で、とりわけ照明をフルに生かしたシンプルな演出は筆舌に尽くしがたいほど見事だった。魂を徹底的に洗浄し、浄化し尽くした、至純の、至福の、絶対時間とも言うべき3時間だった。

アンドレアス・ホモキによる演出の最大の眼目は、このオペラを「反権力オペラ」から「男と女のオペラ(≠性のオペラ)」に徹底的に読み替えた点だ。聞いただけだとそんなに新しい感じがしないかもしれないが、見事な解釈であり、何一つ疑問を抱くことなく、大いに納得させられた。伯爵を「権力」でなく「男」の象徴とみることで、『フィガロ』は最高の人間ドラマとなった。いや、むしろ「権力」とは、「男」に表象されるのである。伯爵の情欲が、あらゆる秩序をかき乱し、司法をも歪め、周囲の人間をおかしくする。第4幕、フィガロがスザンナへの疑念をぶちまけるアリアに、そんな男の卑怯な本質が、端的に歌われる。「男は弱いから、(女を)女神にする」。モラリストの箴言のように核心を突いている。弱いのに、強がる。それが男である。自信があるようでいて、自信が全くないのが、男である。だから、女を女神と見なして、絶対的に信頼しすぎて、いつの間にか「メシ」「フロ」「ネル」ですべてが完結するようになる。

この演出で鍵を握るのはケルビーノである。ズボン役であるという設定をさておいて、ここでのケルビーノは、「男」と「女」の間を行き来する、瑞々しい存在として描かれる。より厳密に言えば、「男的なもの」と「女的なもの」が、よく分からない、まだ染まり切っていない、という存在である。おそらくだが、そもそも「男的なもの」「女的なもの」は、生まれついたばかりの人間には備わっていない。社会の関係性のなかで、性別的な役割を獲得していく。関係存在としての「男」の象徴は、「軍隊」である。言い換えるならば、「力」であり、「マッチョイズム」である。だから、セビリアに出征を命じられるたケルビーノは、劇中様々な場面で、武器を持った「男たち」に囲まれ、かと思えば『恋はどんなものかしら』では「女たち」にもてあそばれ、「自分で自分がわからな」くなってしまうのである。ケルビーノは、現代でいうと、優男というか、アンニュイな中性的男子だろう。「強いもの」に目がない「男」の世界が分からない。でも、軍隊に入って、「男」にならなければならない…。

これは、相当な「深い」話ではないか?男は、社会で「強さ」のごっこ遊びを、人生通して続けていくのだ。出世、金、人望、権力、人脈…「見栄」と「虚構」の関係存在こそ、「男」であり、アルマヴィーヴァ伯爵なのである。そして、伯爵夫人は、伝統的な性別役割意識のもとで、3歩下がって歩む貞淑の「女」の理想を体現する。要は、「弱い」のである。でも、弱い者なりの知恵を生かし、弱い者どうしで団結し、最後に伯爵をギャフンと言わせてしまい、さらにその上で、伯爵を「受け入れて」、幕となる。「弱さ」が「強さ」に勝ち、それどころか「包摂」してしまうのである!!!

何が言いたいか、というと、この話は、まさに完璧に、いま日本を取り巻く世界で、リアルタイムで起こっていることにダブるのである。「強さ」を「強さ」で制しようとする、アメリカ、そして日本…。一方、北朝鮮は、実は「ケルビーノ」であるのだが、自分は、「伯爵」であると思い込んでいる(自分に言い聞かせいる)。そして、そもそも男は「弱い」のに、その「弱さ」を糊塗し、粉飾し、背伸びし、見栄をはり、威嚇して、睨み合い…「力」の限りを示そうとするのである。そんな時に、機知と機転とユーモアで、丸く場をとりなしてれる、伯爵夫人、スザンナ、そしてフィガロはいないのか?最後には、すべてを包摂できる、誰かはいないのか…?

歌手は、ケルビーノのヤナ・クルコヴァが、演技、歌唱とも秀逸。スザンナの中村恵里さんも、自分のイメージするスザンナよりはやや立派とは言え、晴朗な歌声を響かせてくれた。伯爵夫人のアガ・ミコライも、やや太めの声ながら気品ある歌唱である。フィガロのアダム・パルカ、伯爵のピエトロ・スパニョーリとも、序盤はイマイチだったが、徐々にノッてきた。それぞれ立派な声。マルチェリーナの竹本節子さんは、まさに「ズバリそのもの」、笑みがこぼた。

それにしても、2幕終盤の8重唱や3幕の6重唱は、あらゆる音楽の中の最高峰に位置する美しさとドラマを持ち合わせているのではないか!?失神するほど感動した。

コンスタンティン・トリンクスの指揮にも、かなり好感を持った。美しく滑らかで品のいいモーツァルトを志向しているのがよくわかり、すこぶる丁寧に細部まで磨き上げられ、なおかつ流れも悪くない。ただ、緩急の対比というか、もう少しドラマがあってもいいとは思った。特に第4幕のフィナーレの大団円など。やや不満が残った。ピットに入った東京フィルは、最高に冴え渡っている。オーチャードホールで聴くと「響かない」感じがするのは、やはりホールのせいなのだろうか。思えば、飯守さんのもとでワーグナーをやる時も、すこぶる豪壮に鳴り響いていた。

「こんなに幸せな時間があっていいのだろうか?」という思いでオペラを堪能できた。こんなに素晴らしい時間を、「男」のくだらない意地の張り合いの「戦争」で、奪われたくない。勘弁してほしい。いい加減にしてほしい。

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