「アメリカ産」モーツァルト――ジェームズ・レヴァインの『フィガロ』

 このところ毎日更新である。
 
自らの日記代わりに、気軽に始めてみたブログなるものであるが、意外と多くの方に閲覧いただいているようで、ド素人音楽評論家(気取り)冥利に尽きるというものである。
 以前は更新をさぼり倒していたが、最近少し生活にゆとりを取り戻して、自宅で音楽鑑賞する余裕も出てきた。最近はもっぱら『フィガロ』をCDとDVDで味わい尽くしていて、毎日感動しきっているのだが、本日鑑賞した演奏をネタに、音楽論を展開しよう。
 その演奏とは…

 ジェームズ・レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(DG 1990)
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 巷ではもっぱら評判の悪い録音である。音楽評論家3人が鼎談する形で進められたレコード芸術誌上の「名盤鑑定団」という企画で、「着想そのものに異議がある」とまで言われたディスクだ。
 といのも、歌手陣が、「ガラコンサートでもするのか?」と言わんばかりの豪華さなのだ。参考までに以下に列挙すると…
・アルマヴィーヴァ伯爵:トーマス・ハンプソン
・伯爵夫人:キリ・テ・カナワ
・スザンナ:ドーン・アップショウ
・フィガロ:フェルッチョ・フルラネット
・ケルビーノ:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
・マルチェリーナ:タティアーナ・トロヤノス
といった顔ぶれ。
やはり、指揮者、オケ含め、「新時代の『フィガロ』」を思わせるキャスティングである。
換言すれば、オールド・ファンにとっては、魅力がさっぱりであろう。

 で、私なりの見解なのであるが、この録音はそれほど悪いものではない。むしろ、レヴァインは、健闘している。とにかく、この指揮者は日本で全然人気がないのだ。まず、ビジュアル面で評価を下げている。「アフロヘアの太ったアメリカ人が、アメリカの歌劇場オケ相手にモーツァルトを振っている」というだけで、守旧的ファン層は敬遠してしまうのだろう。だが、ウィーンフィル初のモーツァルト交響曲全集の指揮者に抜擢されたレヴァインは、やはりそれなりの実力者である。少なくとも、1990年初頭まではそうだ。
 昨日フルラネットのフィガロに言及したのをきっかけに取り出したこの録音であるが、その他声楽陣も健闘している。とくに、アップショウ、トロヤノスが印象的である。美声のハンプソンの伯爵は、これまた品位抜群である。ディースカウのラインの後継に位置づけられる。つまり、先日の実演での三原剛の演じた伯爵の性格にも近いということだ。ただ、どうも「押しの弱さ」を感じてしまうのも事実だ。テ・カナワの声は少しクセが強いので、伯爵夫人に関しては賛否両論というところだろう。
 そして、それをまとめるレヴァイン。何とも面白い演奏をするではないか。聴きなれたアリアに新風を吹き込み、意欲的な演奏に仕上げる。歌手は超豪華だが、この録音の主体はあくまでレヴァインであり、またモーツァルトの音楽であり、または、モーツァルトの音楽とその溌剌たる音楽表現に努めるレヴァインということになる。
 「着想に異議がある」というのは、私からすると、一種の目的論的な価値観に過ぎない。指揮者とオーケストラを純アメリカ産の布陣で固め、そこに世界一級の歌手陣をちりばめ、「モーツァルトをダシに金儲けしてみたんだよ」という発想が、つまり評論家K田恭一氏の述べるところの、この『フィガロ』誕生の趣旨なのだろう。だが、音楽を聴く前に、「着想」で演奏を断罪しているところからして、すでに先入観や偏見でもってものを語っている証拠ではないか。
  
 もちろん、音楽を論評してご飯を食べるというのは、並大抵のマニアやオタクには不可能なことだ。もちろんしっかり録音を聴いたうえで、演奏を語っていることだろう。だが、日本の音楽評論界には、概して純本場志向が強く作用していて、レヴァインだとか小澤征爾(!)だとかにやたら冷たく当たっている気がするのだ。

 レヴァインの音楽を聴いていると、時には、確かに音がムダに豪放に鳴っているときがあるし、もしくは脂身がないササミを食べるかのような演奏に出くわすこともある。しかし、だからと言って、そうした彼の音楽性をアメリカという出自の中に強引に押し付けることはできなかろうし、ウィーンフィルから一時重宝されていたという事実も考慮の余地があるだろう。 私はこの『フィガロ』を聴いて、むろん着想にケチをつけようとは思わなかったし、ハンプソンの伯爵を存分に楽しみ、オッターが表現するケルビーノ像を面白く聴いた。結局、長年日本の音楽評論家の先達が築き上げた負の遺産たる、頑迷固陋・目的論的な演奏者観を排することが、これからの愛好家の歩むべき道の第一段階だと思っている。

 とてもエラソーなことを言ってのけたが、正直私は日本の音楽評論家にうんざりしている面があり、その職種につく人たちが視野狭窄に陥った聴き方しかできないのに怒りを覚えている面がある。「ドイツ的」に対置されるべき「アメリカ的」とういう観点を創り出して、その勝手に作った枠内でしか音楽を聴いていない。私は、こうした「○○的」という概念がいかなるものなのか、問い直していきたいと思っている。先日このことについて、ワーグナーやブルックナーの音楽を例にとって小論をしたためたので、いずれお目にかけたいと思う。
 
 日本でやたら不人気な小澤征爾は4月に聴きに行くからその時にお手並み拝見というところだが、レヴァインの『フィガロ』の単純な音楽評を書こうと思っていただけなのに、次から次に愚痴があふれ出てきてしまった。

 とにかく、音楽というのは感性で聴くものだから、なんとも厄介な代物である。その点、大植英次のマーラーを批判するなんていうのは、ほんの一愛好家の単純な心情吐露みたいなものに過ぎないし、取るに足りないようなものなのである。いろいろな方の公演評を参照すると、意外とあのマーラーを好意的に受け止めている人が多いのも事実だ。
 しかし、そこがまた音楽鑑賞の面白いところでもある。
 
 だから、私はこのブログのサブタイトルに、「一人の愛好家の独白」、とあえて付け加えているのだ。

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