ラン・ランのラフマニノフ――驚愕のピアニズム(+先日いただいたコメントへの返答)

 昨晩のN響アワー。人気司会者、池辺晋一郎氏が、今回ををもって番組「卒業」だそう。饒舌トークで視聴者を楽しませてきただけに、残念な感がある。

 新司会者の西村朗氏も、重責に戦々恐々、といったところだろう。池辺氏の前は、岩城弘之氏が司会だったが、岩城氏も、これまたユーモアのセンス満点な人。話術に長けた司会者の系譜を受け継ぐわけだから、どういう方向に番組を展開させていくか、興味は尽きない。もっとも、西村氏も、FMにおいては、すでに何年かパーナリティを務められているそうだが。

 西村氏にというと、確か生まれは大阪のはず…と思ってウィキぺディアで調べてみると、やはり大阪の自転車屋のご子息だそうな。新聞で以前読んだ記憶があるのだが、大阪市の鶴見かどこかの人ではなかったか。比較的近隣なので、親近感がわく。この人は、いずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督もしているから、地元との関係は、いまだにもち続けているようだ。
 
 そういえば、肝心の「作曲家」としての西村氏は、どうなのか、という点だが、私はいまだに、かつてN響アワーでこの作曲家の音楽が取り上げられた放送回のことを、明確に覚えている。楽曲名も覚えている。確か、「二台のピアノとオーケストラの為のヘテロフォニー」という音楽だったはずだ(間違っていたらすみません)。いまだにはっきりと覚えているということは、それだけ音楽を聴いたときの衝撃が大きかった、ということ。つまり、私自身、この曲を、大変な名曲だ、と感じたのである。尾高賞をもらった作品だったかもしれない。詳しくは曲の性格を思い出せないが、とにかく、ピアノの用法含め、鮮烈な音楽だった。

 さて、昨日の池辺氏最後のN響アワーであるが、選曲がかなり意外だった。モーツァルト1曲に、ラフマニノフが2曲。池辺氏はラフマニノフがお好きなのだろうか。時代遅れの作曲家と揶揄されたラフマニノフをあえて自身担当の最終回に取り上げ、クラシック音楽の前途に、「前衛性ばかり追求するなよ」と警鐘を投げかけたのか――ウィットに富んだ池辺氏のことだから、ありうる話である。

 昨日放映分の最後の曲目、ラフマニノフの第2交響曲の第4楽章も、アンドレ・プレヴィンが、奇をてらわない美しい解釈を示していた一方で、私が本当に度肝を抜かれるほど驚嘆したのは、最初に放送された、ラン・ランのラフマニノフを聴いて。のけぞるほどの戦慄を覚えた。

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 以前、このラン・ランの弾く第3協奏曲全曲が放送された時も、一通りみていたはずなのだが、どうも派手派手しくて仰々しい動作ばかりが目について、「もっと落ち着きたまえ、きみぃ」くらいにしか思っていなかった。だが、昨日久々に聴いて、見てくればかりに気をとられていたかつての自分の愚かしさを嘆いた。確かに、若気の至り、巨匠シャルル・デュトワ相手に、自分勝手に暴走気味の感はぬぐい去れない気もするが、逆に、それこそがラン・ランの魅力なのだ、と悟ったのだ。

 テンポの揺れが恐ろしいくらいに極端で、快速テンポで弾き飛ばす個所は、まさに一気呵成。一方、これまた極端なぐらいテンポを落とし、ためを作ったりする場面も不意に現れたりして、ききながらハラハラした。大オーケストラが背後にあることも忘れて、まさに自身のピアニズムの中に没入している。音楽に合わせて、顔の表情も変幻自在。なぜか、客席に顔を向けたりする。「そんな方向見ないで、指揮者デュトワの方も、もうちょっと見たら?」とも言いたくなるが、逆に、これほどエゴイズムが強ければ、一級芸術家としての太鼓判が押せる。芸術家(しかもピアニスト)なんて、極限的なエゴイストでナンボの世界だろう。

 だから、第一級「がきんちょ」ピアニストにとことん付き合ったデュトワの方も、大いに評価されてしかるべきだろう。あんなに、「自分勝手」に弾かれたら、カラヤンなんか絶対キレるのだろうが、そこはさすがにかつてアルゲリッチをめとっていたデュトワだ。ピアノを慎重に聴き、柔軟にオケをドライブさせている。つまり、N響も、よくあれに耐えた、ということになろう。終演後のコンマスが、ラン・ランの握手に対して苦笑していた(ように見える)のも、テレビの前の私自身、大いに納得である。

 だが、その苦笑も、「よくもやってくれたな、こっちはフラフラだよ」という意味の笑いだ、と勝手に解釈してみた。そこまでオケを疲れさせるこのピアニストは本当にすごい。大事なのは、ここで、「出る杭」を打っては絶対にいけないということだろう。
 くどいようだが、彼は、「ピアニスト」なのである。
 かつてのメニューインみたいに、むりやり「神童」に祭り上げられたわけでなし。自然に登場してきた天才を、応援したい。もちろん、たとえばインタビューやスピーチなんかで、「他の同世代ピアニストはクズばかりだ」とか、「伴奏のデュトワは全然私の音楽を分かっていない」とか言い出したりしたら、これは懲らしめねばならないだろう。だが、音楽表現の中で、エゴイズムやナルシズムを思い切り出し切るんだったら、それは意欲的で、芸術家としてすばらしいことだろう。

 ただ、NHK側により発表されている、「招聘してほしいアーティストベスト10」にはラン・ランの名前が挙がっていないし、あのラフマニノフ以来、確かN響にも呼ばれていないはずだ。
 
 彼は今、ウィーンフィルやシカゴ響ともCDをリリースするまでのピアニストに成長してきたが、あの指揮者にくってかかるような挑発的なエゴイズムとナルシズムは、今後も捨て去らないでほしい。確かに、そうした姿勢は、曲によって向き不向きがあるだろうが、少なくとも、ショパンやラフマニノフの大家には、十分のしあがれるはずだ。おそらく、あのコンサート当日に、NHKホールにいた聴衆、また、TV放映をみた愛好家からは、評判が今ひとつだったのかもしれないが、評判や評論に目もくれないで、とことんベクトルを内に向けていくのが、芸術家の「お仕事」であろう。(彼の演奏は、CDで聴いたことがないのだが、録音でのラン・ランはどうなのだろう。)

 そういえば、今年の秋のウィーンフィル来日公演では、ラン・ランをソリストに迎えた公演も予定されているようだ。

 ハイドン:交響曲第104番『ロンドン』
 ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調(独奏:ラン・ラン)
 R・シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』

 という、壮絶かつ、若干意味不明なプログラムだが、聴きごたえは十分そうだ。90分は軽く超えるだろう。現在、サントリーホールでの公演のみ、アナウンスされている。望めないことではあろうが、この同プログラムでの関西公演が実現してくれないものか。指揮者メータ単身では、どうも聴きにいく意欲も沸かないので。

 ということで、ラン・ランというピアニストを、昨晩のN響アワーだけを念頭に、ほめちぎってみた。ただ、最近の彼をCDで聴いてみると、印象が一変する可能性もあるので、そのあたりは、軽く読み流す程度にご勘弁願いたい。


追伸

 数日前著した、「凄絶な、『カルメン』」に対してご丁寧な長文コメントをくださった曽根崎さんへ、この場にてお返事を書かせていただきます。

 音符が、「音」そのものではないという時点から、音楽というのは、主観的なものです。その点、ご賛同いたします。客観性を追求した時点で、たとえば、フォルテやピアノの基準となる音量を判断するのも、演奏家の主観であるわけですから。
 私のようなオタクであっても、音楽を聴くときには、一応スコアを紐解いてみたりすることだってあります。ですが、正直、ピアノ演奏にそれほど長けているわけでもないし、和声や対位法を本格的に勉強したわけでもないので、読譜力なんて、本当に知れているのです。ですから、そうしたとき、私はCDで、名演奏家の解釈を楽しみつつ、スコアを読んでみます。しかし、その時点で、スコアから実際に音になった音符は、演奏家の頭の中にある音符である、と認識しておかねばならないでしょう。私の各楽曲に対するイメージは、特定の音楽家のそれを基準に築き上げられたもの、であるとも言えるかもしれません。
 そうした自覚は、もっておりますし、私自身、自らのとるに足りない「独白」において、客観性を前面に打ち出そう、などと、考えたことはありません。

 ゼッフィレッリの『トゥーランドット』演出に関して、あれが一つの頂点である、というご意見に対しては、それを尊重申し上げます。私は、くどくどした文章表現を避けようと思うあまり、ときたま直接的にものを書きすぎるクセがあります。ゼッフィレッリの演出を知ったのが、「不幸の始まり」という表現をいたしましたことも、今思えば、直接的に過ぎ、失礼だったかもしれません。
 もちろん、仮に私が、あの公演を、実際にメトロポリタン歌劇場の客席で鑑賞していれば、あまりの絢爛豪華さにめまいを覚えたことでしょう。そして、とりあえず、その贅を尽くした演出を施すゼッフィレッリの気前の良さに、手放しでブラヴォーを絶叫したかもしれません。
 ですが、DVDでの鑑賞では、実演よりは気持ちが醒めていますから、どうも斜に構えて観てしまうところがあります。そちらの方こそ不幸なことかもしれません。
 あれを下品と思うか思わないか、もしくはやりすぎと思うか思わないか。それは、全く個々人の感性に依拠する問題です。悪趣味と思うか、思わないか――これは、ゼッフィレッリ以前の『トゥーランドット』の舞台上演を目にしようがしまいが、無関係な話ではないでしょうか。もちろん、もっと古い『トゥーランドット』の舞台を観てみたいとの気持ちはありますし、勉強しなければらないのは事実ですが。
 また、照明演出の件に関してですが、私自身、それほどあの舞台を「暗い」とは感じませんでした。たとえば私は、照明演出に関して、ムーティがアン・デア・ウィーン劇場で振った『ドン・ジョヴァンニ』のDVDを思い出します。あれこそ、開幕から終幕まで、一貫してひたすら暗く、「死」の概念を、極限的にまで突き詰めた、印象的な照明演出でした。
 先日の『トゥーランドット』公演の第2幕照明演出は、暗すぎるわけでもなければ、明るすぎもしない。至って普通のものであったかと思います。
 確かに、舞台全体に照りつけるような照明演出を投射した方が、聴衆の気分は高揚しましょうが、あの場面は、所詮「謎解き」ですから、別にとりたてて照明を痛烈に照射する必然性を、私自身は感じないのです。何せ、舞台装置が、「照らしてもしようがない」代物だったわけですし。
 
 「夜」という場面設定に関してですが、まず、第1幕にてペルシアの王子が「月の出」により処刑され、第2幕で、トゥーランドットが、「明日の朝まで」に、カラフの名を明かそう、というわけです。そして、カラフは、第3幕で、「誰も寝てはならぬ」を歌う。この物語が、一晩の出来事を扱ったものならば、第2幕の筋書きは、「夜」であることが順当ではないか、と思うのです。
 もっとも、これはまるで推理小説のような話。音楽とは無縁のことです。また、謎解きの場面が、屋外でおこなわれたか、もしくは屋内で行われたか、で事情も変わってきます。
 とにかく、些事には変わりありません。

 私は、主観に依拠して、独白を著している、と断言申し上げますし、いずれの独白も、学術的根拠に乏しい、戯言かもしれません。
 定期的にお読みいただいているようで、本当にうれしく思います。つたない意見論述ではありますが、今後ともお読みいただき、ご意見を頂戴できれば、と思います。ご批判や、ご自身の推薦盤CD・DVD紹介など、いただければ幸いです。
 また、機会がございましたら、ご自由にコメント記述いただければ、と思います。
 
 
 

 

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この記事へのコメント

通りすがり
2010年02月03日 16:56
実際は、カーテンコール時にデュトワはキレたみたいですよ。
カラヤンを引き合いに出されていますが、逆にカラヤンだったらキレはしないかな、と思います…

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