ペーター・コンヴィチュニー講演会

 ここしばらくはコンサートとご無沙汰だが、昨日はレクチャーを聞きに、久々にびわ湖ホールを訪れた。当初は行くつもりがなかったのだが、縁があって行くことになった。午前の所用を済ませて、急いでびわ湖ホールに向かう。

画像
 

 この日時設定だから、集客を心配したところ、案の定、300席弱の定員に数十人集まった程度だったと思う。チケットも、一般1000円、学生(25歳未満)500円ということで、採算度外視。コンヴィチュニー自身の、「読みかえ演出(?)を日本に浸透させよう」という熱意が、当レクチャー開催の最大の原動力だろう。


 さて、具体的な内容に関して。

 のっけから、「生きた劇場と死んだ劇場、私が目指すのは生きた劇場です!」と、理念・信念を思い入れたっぷりに語り出す。

 講演の内容をおおまかに要約すればこうだ。
 
 
 劇場は、文明の発達と共にあった。古代ギリシアのポリスにおいて、劇場は民衆の議論の場であり、その点、劇場は対話の場である。
 「劇場の悪用・濫用」に関して申し上げたいが、私にとって、メッセージ性のない演劇や歌劇を劇場という場で上演することこそが、ここでいう「悪用・濫用」である。舞台上で展開される演技は、まさに特定の演者の人間総体が反映されたものであり、演者が「現代に生きる人間」である以上、舞台上で展開されるドラマは、「現代」でなければならない。テクスト上の時代設定をそのまま舞台上で展開するとき、そこに「現代」は存在せず、舞台は死ぬ。これこそ、「舞台の悪用・濫用」であるのだ。舞台は美術館でもなく、博物館でもない。舞台の上の人間が、自らの命をその場において貸し与える「現代」なのだ。
 生きた舞台を創造するとき、最大限に注意しなければならないのは、「犠牲者」を描くことだ。グルックも、モーツァルトも、ワーグナーも、ヴェルディも、みな犠牲者を描いた。たとえ、舞台上で殺人を行う人間であっても、その人間だけに罪の全てを還元することはできない。そこで人を殺すのは、「社会」であり、そこで人は、だれでも殺人者たりうるのだ。演出は、観客との、全員参加型かつ「生」のコミュニケーションを通して、このように非継続的芸術を、現実世界へと延長する責務を負うのだ。
 音楽・テクストの両面を尊重し、かつ、上述したような、「現代」や「人間総体」を表現するとき、オペラのプロフェッショナルたる専門の演出家の存在が不可欠だ。観客は、「ハイC」にブラヴォーを飛ばしに来たのではなく、自らがオペラを構築する一員でもあるのだから、そうした世界を的確に現出させる実力を有する演出家の養成機関を設立するのに手を貸して欲しい。


 具体例の映像を交えつつ、2時間以上にも及んだ講演だったから、まだまだ内容は他にあったが、概括すると以上のようなものだ。

 演出は学問ではないから、ここで発言の揚げ足をとって、「ここが矛盾している、あそこは論理の飛躍だ」と言うのはナンセンスである。だから、自分自身が前衛的演出にいまだ完全にはなじめずにいるとは言え、コンヴィチュニーの発言の随所に、オペラ演出の「前進」を強く願う志向性を強く感じ取り、驚き、うなずく個所も多々あった。
 
 だが、どうも、実際に彼が演出したオペラ作品の映像をみると、やはり、その舞台が意欲的に過ぎるのではないか、と思えてならなかった。ウィーン国立歌劇場で上演された「ドン・カルロ」が一番の好例。コンヴィチュニーの「劇場ジャック」といっても過言ではない大掛かりな演出――罪人処刑の場面など、ロビー、通路、舞台といった劇場という空間をすべて使用し、取材陣まで配して、ダンスパーティーさながらの「処刑パーティー」の場を現出させる。客席と舞台上のコミュニケーションとしてのオペラの在り方を、最もわかりやすい形で、また、もっとも極端な形で表現したものだと思ったが、一方で、ここでヴェルディの音楽はどうなってしまうのか。コンヴィチュニーの豊富なアイディアや強い信念には敬服するが、「ハイCへの拍手のために舞台が滞ることは断じてあってはならず、すべてが、総体としてとらえられるべきだ」という彼の強い主張を今一度考えると、演出のみが先行して、聴衆が演出以外の要素に集中できない状況というのも、憂慮されるべきなのではないか。皮肉ではあるが、その点において、コンヴィチュニーの志向する演出が、現段階では、オペラの常道として据えられるべき形態にあるとは思えない。

 だが、確かに、旧態依然たる演出も、将来性があるとは考えにくくなってきた。先日亡くなった黒田恭一氏が常々述べていたように、オペラがあくまで「音楽」であると理解するのならば、演出は出しゃばらずに控えめであった方がいいのだろうが、コンヴィチュニー(ないしは他の多くの演出家もそうであろうが)のように、オペラを文字通り「総合芸術」として、音楽・美術・演劇・バレエ等をバランスよく表現しようというのなら、音楽の従順な下僕たる演出は、改めていかねばならないのだろう。演出の問題を考える前に、オペラそのものの在り方を深く考えなければならないが、私自身は最近、「総合芸術」としてのオペラの在り方に傾きつつあり、DVDでの鑑賞にもかなり時間を割くようになってきた。

 奇しくも今回の会場であったびわ湖ホールでは、昨年秋に「サロメ」が大胆な読みかえ演出にて上演されたところであり、その折には私自身、驚きあきれて拒否反応を起こしてしまったが、ヨーロッパでは前衛的な演出が一般に広く浸透しているようであるし、狭い視野に凝り方まった鑑賞では、自分自身の楽しみ方を大幅に減じてしまう。
 コンヴィチュニーの述べた理念を理解したうえ、今回の講演会を、自身の演出に対する守旧的認識の一つの転換点にしよう、と思った。

 だが、自分が変わって全てを受け入れればそれでよい、というものでもなかろう。先に述べたように、真の意味での「総合芸術」としてオペラを措定するならば、演出の独り歩きも避けられるべきであろう。これは、演出家の側に変革を求めたいこと。現代との関連性の中に演出家のイデオロギー性を内在させるのにかんしては、「どうぞご自由に」という感じだが、理念先行、頭でっかちのオペラ上演を避ける意味においても、オペラのそれぞれの構成要素と親和性のある演出の在り方を、より深く模索していってほしい。
 自分自身の言っていることは、理想論に傾きすぎではないか、とも思うのだが、愛好家として、今後オペラを鑑賞する楽しみは増えた。私自身、音楽を楽しむ際の「保守性」は、隠れ蓑にすぎず、生み出すものがないし、真の愛好家を育まない、という気がしている。ヨーロッパと日本の違いはこの点にあるのだろう。「保守性」をいち早くかなぐり捨てるところから、真の音楽的土壌が生み出される、ということを念頭に、オペラをも楽しんでいきたい。

 さて、当日の公演ではドイツ語の通訳の方がつき、立て板に水ですらすらと訳しておられたが、ドイツ語の堪能な方に伺うと、コンヴィチュニーの過激な表現を、相当穏和な日本語になおして述べていたとのこと。だが、「その訳ではコンヴィチュニーの真意が伝わらない!」と嘆いておられた。
 自分自身でもドイツ語のリスニング力をつけていくほかない。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック