ジャン=マルク・ルイサダ ピアノリサイタル

 4月末以来、久々のコンサート。いずみホールでの、ジャン=マルク・ルイサダピアノリサイタルである。

 ルイサダのファンというわけでもないのだが、プログラムをみてチケット購入を決断。センスが抜群に冴えた、久々の「考え抜かれた」プログラミングだ。

画像


[前半]
・3つのノクターン Op.9
・2つのノクターン Op.27
・ノクターン Op.48-1
・ノクターン Op.62-1(以上、ショパン作曲)
・フランス組曲第5番 BWV.816(バッハ)
[後半]
・子供の情景 op.15(シューマン)
・ピアノソナタ第23番「熱情」 op.57(ベートーヴェン)

 このピアニストの前回の来日時のプログラムは、たしかショパンのマズルカ全曲。そして、今回の来日公演も、当初はノクターン全曲が予定されていたという。さすがに、それは聴衆にもしんどすぎるプログラムだということからか、変更になったが、この人の組むプログラムには、何かしらのテーマ性が強く込められている。そして、そのテーマ性は、例えば先日のピリスのリサイタルプログラムほど、主張に満ちた複雑なものではなく、純音楽的な観点からも鮮やかに構成されている。

 さて、ノクターンから子供の情景に至るプログラムは、叙情性がとりわけて色濃い音楽が並ぶ。ノクターンは、まさに「夜」を想起させる、深く、瞑想的な叙情の世界だ。ルイサダというと、一般にはすぐショパンを思い浮かべるが、確かに、このピアニストのショパンは、完全に独特の世界観に満ちている。まず、気付くのは、ペダルの使い方を工夫しているのか、意図的にタッチを曇らせているという点だ。もやがかかったかのような、霞んだ音とともに、目一杯のテンポ・ルバートやデュナーミクの強調を随所に織り交ぜ、ショパンの叙情を表現する。Op.27において、そのスタイルはもっとも効果的に生きていたと感じた。
 ただ、デュナーミクが本当に強調されるため、スビトピアノをかけたと思うとその直後にびっくりするような強奏をもってきたりして、心臓が凍り付きそうな瞬間も多々あった。少々極端すぎるのではないか。

 さて、バッハフリークの私としては大変期待していたフランス組曲第5番だが、ルイサダのピアニズムとバッハの音楽がうまく溶け合うか、当初は少々案じていた。
 私は、バッハの叙情性は、瑞々しさや清澄感で語られる、と認識してきた。そもそも、バッハを叙情性で語ることに否定的な方もおられるかもしれないが、私個人としては、バッハを語る際の叙情性という側面を大事にしている。だが、ショパンを弾く際の語り口をバッハに転用すると、逆にバッハの叙情性が死ぬ(ないしは大幅に弱まる)のではないか、と考える。これは大変主観的ではあるが、タッチに清澄感がなく、流れるようなポリフォニーの音楽がルバートにより断ち切られるバッハなど、正直想像がつかないのだ。
 そして、実際はどうだっかというと、驚くべきことに、アルマンドやサラバンドでは、ショパンと同じ語法が、明確に聴き取れた。
 これはちょっと頂けなかった。これは趣味の問題にすぎないのだが、実際に、バッハが生きていた時代に使用されていた鍵盤楽器が、これほど極端なデュナーミクを表現できたのだろうか。もちろん、楽器そのものの進化・発展の恩恵に純粋に浴して、表現の可能性を存分に使うのも一つの演奏スタイルではあるが、私の場合、「強弱表現にそれほど可能性が見出せなかった時代の音楽である」という意識が先行し、ルイサダのバッハを素直に受け入れることができなかった。
 ガヴォット以降、音楽は比較的タッチを際立たせる方向へと変化し、違和感は薄れていったが、総合的に、ルイサダのバッハは、私自身のバッハの音楽に対する好みとは少し距離があった。

 休憩をはさんで子供の情景。
 この音楽も、憧憬に満ち、純粋さにあふれた叙情性を十分に表現する。この音楽を聴く度に、「シューマンのロマンティシズムは生半可なものではないな」と素朴に感じているのだが、とにかく、「楽しさ」が格別なだけでなく、素朴さや純粋さの中に、限りないロマンティシズムと抒情が凝集されているのを痛感する。
 これを、「大人からみた子ども」という立場で演奏してしまったら魅力は半減するだろう、と考えるし、それどころか、「大人」や「子ども」といった概念を吹き飛ばして、とにかくショパン同様のロマンティシズム表現をシューマンで実践しようとでもしたら、この音楽の真の抒情性は伝わらないだろう(以上、すべて私個人の意見であるが)。
 しかし、そこはユーモラスなルイサダのことだ。まさに童心にかえってシューマンの譜面に向き合う。「知らないくにぐに」ににじみでる素朴さ、「鬼ごっこ」の快活な楽しみ、「トロイメライ」のはかなさ…いずれも子どもの内面を、こどもの目線から訴えかける。
 楽しく、しみじみとする――このシューマンの音楽の本質が、見事に表現されていただろう。本日のプログラムの中でも、個人的には、予想以上に楽しむことができた演目だ。

 さて、長いプログラムの最後を飾る、ベートーヴェンの壮大なソナタ、「熱情」。
 これは、一筋縄に「抒情」というよりかは、文字通り、「熱情」的・「情熱」的音楽で、前のショパン・バッハ・シューマンと対照をなす。そして、ソナタ形式が厳格に徹底された音楽で、ルイサダの自己表現はどこまで可能なのか、固唾をのんで音楽に耳を傾けた。
 しかし、肩すかしをくらうほど、ルイサダは伝統的なベートーヴェンのピアニズムに徹していた。造形的な乱れをほとんど生み出すことなく、音量もフォルテを基調とし、強音をばりばりと弾き進めていくといった趣なのだ。
 ベートーヴェンを、「弾き崩し」を交えつつ表現できるか、と問われれば、正直、これには「YES」と答えられそうな気がする。往年の巨匠がいかにベートーヴェンを弾いたかは今回は俎上にあげないが、ごく最近でも、アンドラーシュ・シフが優れたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集をリリースし、その「熱情」ソナタにおいて、驚くほど伸縮性のある自在な表現により、名演奏を生み出した実例がある。
 だが、ルイサダは、あくまでベートーヴェンの音楽では伝統に身を寄せた。私は、バッハにまで「大人のロマン」を横溢させのだから、ベートーヴェンはすごいことになるんだろうとそわそわしていたのに、その点では「期待」を裏切られた感じがした。
 一方で、逆の見方をするならば、このピアニストが、これほどまでに強靭な打鍵の力を持ち合わせ、ベートーヴェンを正統的な形で演奏できると証明できたという意味では、貴重な体験だったのかもしれない。これは、あとあと生み出したこじつけのようにも聞こえるが、決して、この「熱情」ソナタ全体の演奏が良くなかったというわけではないのだ。むしろ、「ベートーヴェンを聞いた」とう思いに満腹感を得られるほどである。だが、「ルイサダを聴きにきた」のか、「ベートーヴェンを聴きにきたのか」という点では、例のバッハの感想もあいまってか、どうも判然としない点が残った。

 アンコールは、4曲。サービス精神旺盛に、いきなり「沈める寺」が来た。これはすごかった。巨大な音楽が迫ってくるような、壮大な演奏だ。
 続いてシューマンの小品。曲名は忘れたが、楽曲紹介の際のルイサダのユーモアなしぐさに、客席は一気に緊張感から解放されたようだった。
 最後に、ショパンのマズルカの第14番と15番。先年の秋にルイサダはショパンのマズルカ41曲の録音を済ませているそうで、近々発売されるそうだ。マズルカという、元来舞曲であるはずの音楽の割には、暗く内省的な楽曲の多いショパンのマズルカだが、ルイサダの彫りの深い音楽づくりは、マズルカにもぴったりだ。アンコールに持ってくるには少々重すぎる音楽かな、とも思ったのだが、最後は満足感とともに会場を後にできた。
 今日は、実のところ、打鍵に乱れも多く見られが、決して音楽は滞らず、随所に「ルイサダ節」を充溢させていた。
 
 ちなみに、ホール内で開かれたサイン会では、終始ファンに声をかけることを忘れていなかった。しかも、日本語で積極的に話しかけたり、気さくな人であった。

 さて、今日のいずみホールはほぼ満員。自分が絶対的だなどという意識はないのだが、聴衆の方々に対して本日も苦言。
 今日、コンサート開始直後からチラシを床にパサパサ落としたり、ビニール製の袋をバタッと床に落とす人が続出して、とにかくうるさかった。異様なくらいにうるさかった。ECMとかいうCDレーベルが、「静寂の次に美しい音楽」とかいうのをキャッチコピーにしているが、それは結構当たっていて、楽器が鳴っていない「静寂」の瞬間も、落ち着いてかみしめる心のゆとりが欲しい。チラシのパサパサ音でも、音響のいいホールでは、鑑賞の阻害となって意外と耳障りなものである。自分自身含め、より音楽を集中して味わえるように、聴く態度をなんとかしていきたい。

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