【in シュトゥットガルト】 シュトゥットガルト歌劇場 M.ホーネック指揮 『ばらの騎士』 1/16

ハンブルクの『パルジファル』に始まった今回の放浪も、ブロムシュテットのブルックナー、ベルリンの『こうもり』、ライプツィヒの『トリスタンとイゾルデ』を経て、音楽鑑賞5日目にして『ばらの騎士』に到達。いやはや、ヨーロッパの音楽事情恐るべし。毎日、どこかで凄まじい催し物がある。

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シュトゥットガルトを訪れるのは初めて。日本ではあまり名の知られていないオペラ・ハウスかもしれないが、ドイツの地方オペラの底力を信じ、ライプツィヒから足を延ばした次第。ライプツィヒから、フランクフルト空港駅でICEを乗り継ぎ、約6時間(乗り継ぎ時間含む)。この日は、シュトゥットガルト行きのICEが20分遅延した。やれやれ。

さて、シュトゥットガルトというと、古くはミュンヒンガー、もしくはヘルムート・リリンク、最近ではノリントン/SWRの活躍で知っている街だったが、実際に足を運んでみてびっくり。ベンツで栄える商工業都市どまりかと思いきや、ドイツでも指折り数える(?)文化都市といった趣きである。駅周辺には豊かな緑を湛えた公園が広がり、芸場や美術館、ショッピング・モールなどが密集している。ちょうど日曜日だったので、公園やデパート、繁華街は、休日を楽しむ人たちで溢れかえっている。なるほど、多くの音楽家が活動拠点としてきた事情にも納得である。

中央駅至近の宿にチェックイン。中央駅の上には、ベンツのエンブレムが誇らしげに回転している。すでに4時近かったので、立ち食いピザ屋で夕食らしきものを済ませ、5時半の開演に向け劇場へ。長時間の観劇と、連日の長距離移動のため、夏場みたいにゆっくりと夕食を食べる余裕がなかなかないのが辛い…。劇場で、白ワイン1杯を飲んで、いざ客席へ。

ところが。このシュトゥットガルトのオペラ・ハウス、劇場のつくりそのものも、客層も、どこか少々保守的な雰囲気で、いまいち居心地がよくない。年齢層が高めの人が多く、派手に着飾って社交にふける人も多い。さらに、客席内には、開演10分前まで入れないのである。まぁ、日曜日の晩、演目も『ばらの騎士』だから、事情は分からなくもないが…。

それでは、公演内容へ。

『ばらの騎士』の実演は何年か前にびわ湖ホールの沼尻セレクションのプロダクションをみて以来だが、個人的には比較的愛好しているオペラ。DVDでも、カラヤンとC.クライバーの名舞台をたまに取り出してみたりすることもある。そんな超名演に慣れ親しんだためか、はたまた、期待が大きすぎたためかは分からないが、今回のシュトゥットガルトの『ばら』には、かなりがっかりした、というのが率直な感想。

まず、M.ホーネックの指揮がよくない。荒削り過ぎて、情緒も雰囲気も乏しい。ウィーンとのゆかりを自任する指揮者なんだったら、もうちょっと思い入れを込めて演奏してくれ、と言いたい。第2幕のオックスのワルツも、「ばらの騎士」到着の場面も、第3幕のオックスが追われる場面のワルツも、すべて一筆書きの一本調子だ。指揮者の腕の見せどころを、全部のっぺりと演奏している。「『ばらの騎士』だから、ウィーン情緒纏綿に」と言っているわけではないのだが、それでも、『ばら』からむせぶような情趣を抜いたら、何が残るだろうか。この作品への指揮者の共感が伝わってこない、なんとも味気ない『ばらの騎士』である。

シュトゥットガルト歌劇場のオーケストラは、ウィ○ぺディアによれば、「冬のバイロイト」とよばれるくらい、強力な金管を主体とした迫力ある音楽性を持ち味としているそう。たしかに、『ばら』でも、第1幕序奏のホルン強奏からして、まさしく「咆哮」の勢いで、「冬のバイロイト」の異名に恥じない奮闘ぶりを示す。だが、『ばらの騎士』が、バイロイトの要領だけでは片付かない作品であるくらい自明だろう。そこをフォローして、音楽性を高める役割を担うべきがホーネックなはずだが、この人は、オケの粗野な側面を引き立てるばかかり。これでは、R.シュトラウスの爛熟したオーケストレーションが死んでしまう。

輪をかけてよくないのが、シュテファン・ヘアハイムとかいう人の演出。パンフレットをみている分には、古き良き時代の雰囲気を湛えた穏やかな演出にみえるが、実際目にしてみると、正直、噴飯ものである。

かなり品の悪い演出だったので、公共性の観点から、あまり直接的には言わないが、とにかく、純粋無垢なファニナル家(というか、レルヒェナウ以外の人々)と、卑猥で野蛮なレルヒェナウ家という、二律背反的な描きわけが極端すぎる。というのも、実は、冒頭から、舞台には、体の半分が獣で半分が人間みたいな謎の生命体が跋扈しまくっている。その後、よくよく舞台をみていると、それは、オックスの変態性を象徴する生き物であるとともに、レルヒェナウの人々を現す二面性を持っていることが分かる。だから、舞台は、冒頭の序奏から、元帥夫人とオクタヴィアンの関係を描くこともなく、変態獣に追いかけまわされる元帥夫人を、純粋無垢な世界の番人たるオクタヴィアンが討伐するシーンから始まるのである。

したがって、ストーリーの主軸は、「元帥夫人とオクタヴィアン」から、「ゾフィーとオクタヴィアン」へ、という流れではなく、徹頭徹尾、「変態と反変態」、もしくは「純粋さと俗っぽさ」の葛藤という構図に読み替えられ、進行するのである。それゆえ、なんと、第3幕フィナーレの3重唱でも、引き続くゾフィーとオクタヴィアンのデュエットでも、変態獣は舞台に出ずっぱりで、さらに、ゾフィーの落としたハンカチを拾い上げるのも、この変態獣なのである(ちゃんと、ハンカチを落とし、拾い上げるという設定を残しているあたりは、ちょっと笑えるのだが…)。なお、第1幕と第3幕で登場する黒人小姓は、どちらの場面でも変態に読み替えられていた。第1幕では、黒人風の身なりをさせた上で、である。見方によると、これはちょっとまずい気もするが…。

さらに、この演出では、貴族風のみなりをした女声陣に対し、父親のファニナルや、ヴァルツァッキ、アントニーナなど、欲望に突き動かされたりするその他の登場人物は、虫や動物の衣装を着せて茶化されている。それを示すかのように、ニワトリの格好をさせられていた父親のファニナルは、第3幕で、普通の身なりに戻って登場するのである。統一感はとれているものの、どうも単純すぎる発想である。

こういった観点を総合すると、憂愁の元帥夫人が醸す人間の悲哀を、「野蛮な欲望の世界」と「純粋で無垢な世界(?)」の対立にずらした演出に、一本調子のホーネックの演奏はよく親和していたのかもしれない。しかし、「『ばらの騎士』もこうなっちゃったの?」と思うと、こちらはかなり当惑した。

このオペラ・ハウス、休憩時間には、何と、観客が、いっせいに客席からロビーへと追い出される。こうした傲慢な劇場の対応もあいまって、少々印象の悪い『ばらの騎士』公演となった。せっかく、ホーネックが振るこの公演日をチョイスしたものの、後味は複雑である。

そう言えば、歌手は比較的よかった。オックスを歌ったヘムという歌手が気に入ったが、それほど喝采は受けていなかった。ディーナーとかいう歌手が歌った元帥夫人が大人気だった。経歴を読むと、かなり大物みたいだ。

翌日は、またまた長距離移動。がらっと趣向をかえて、ドヴォルザークの『ルサルカ』をみる。

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この記事へのコメント

さっぴょん
2011年05月10日 04:53
ボクもこの演出観ました。個人的に悪くないと思いましたが。ヘアハイムのこのばら騎士は、ドイツの権威のある音楽雑誌、オペルンヴェルトで、演出、舞台、美術、3部門総なめで、2009、2010年シーズンにおける、最優秀賞を受賞しているそうですよ。日本人とドイツ人の趣味は違うのでしょうかねえ。しかし、ボクもホーネックの音楽には全く納得がいきませんでした。彼はいい指揮者なんですか?

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