【本の感想】岡田暁生著 『クラシック音楽とは何か』(小学館)

個人的に、クラシック音楽に関する本を手に取る機会は意外に少ない。楽譜満載の専門書は読んでも理解できないし、入門書は「知ってるよ」という情報ばっかりなので、なかなか「これぞ」という本とはめぐり会えないのである(面倒臭いオタクである)。直近では、音楽之友社から刊行された『マーラーを語る 名指揮者29人へのインタビュー』という本が最高に面白かったが、これを読んだのもかれこれ1年以上前。そんな折、小学館から刊行された音楽学者・岡田暁生氏による『クラシック音楽とは何か』という本が、なかなか面白かった。知らない話、というか、「そう言われてみれば、そういう聴き方もできるな」という話が散りばめられていて、オタク向けのガイドブックとしても十分通用する。

文中で繰り返し、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3者への言及があり、この3人が「クラシック音楽史の“別格”の金字塔」とされているが、この考えには全面的に賛成。中でも、岡田氏は「モーツァルトの音楽は実はとても“難しい”もので、なんでこれだけ世間に膾炙しているか分からない」という趣旨のことを述べているが、この意見にも賛成である。以前、モーツァルトのピアノ・ソナタに関する雑文にも書いたが、この文字通りの「憂愁」の表現にこそ、音楽家の「その人としての」真価が問われていると思う。現世に徹底して生きながら、どこか自分を引いた目で客観視し、時には道化を演じるような、そんな多重性のある人間観が、モーツァルトの音楽には横溢している。自分にとってのモーツァルトの「この1曲」は間違いなく『フィガロの結婚』だが、あのオペラを観るたび、人間世界の「全て」が凝集されているような気分に陥る。フィガロがマルチェリーナとバルトロの子であることが急展開で分かってしまう第3幕のあの重唱など、卒倒するほど深淵で美しい。こんな息を呑むような音楽体験があっていいのか、とその都度思う。そして(多少の傲慢を承知で言えば)、こんな瞬間を経験できる世界で、なぜ本気で「戦争」のことを考える大の大人がいるのだろうと、そんな気分にまで陥ってしまう。

ちなみに岡田氏は、高校時代オーケストラ部に所属していたそうで、そこで「ベートーヴェンの交響曲ならなんとか形になる」場合でも、「モーツァルトは、絶対にそうはいかない」という経験をしたという。これもよく分かる。自分も一時、某アマオケの端くれの端くれとして籍を置いたことがあるのだが、そのアマオケが『魔笛』序曲を演奏したのを聴いた時の悲惨さは未だに忘れられない。針金のような汚い音色の弦楽合奏に、茫洋と締まりなくリズムを添える管楽器に打楽器。自分の知っている『魔笛』序曲とは似ても似つかない。モーツァルトは、高機能なアンサンブル集団が、ピッチをきっちりと揃え、端正に瑞々しく演奏しなければ「モーツァルトにならない」のである。その意味でも、本当に「難しい」作曲家だと思う。

そして、この本の中で最も共感しながら読んだのが、「演奏のよしあしはどうすれば分かる?」というチャプターである。曰く、「とてもいい演奏」と「とても悪い演奏」は誰でもすぐに分かり、難しいのはその中間段階の演奏の評価だという。CDレビューをする際などにも、そういう演奏にぶち当たると、悶絶したくなるほど苦労するという。

これは、1人のコンサートマニア、音盤蒐集家として、本当によく分かる。というか、コンサートに行っても本当にそんな体験ばかりなのである。何度かに一度(というか何十回に一度)、「これは!」という超絶的に崇高な演奏と出会うが、大体のケースは、コンサートの帰りの電車で、すでに記憶が雲散霧消しているのである。そうした印象論は、まさに「コンサート・ブログ」などをやっているとドンピシャで体感できる。要は、「その演奏について書きたい」という情動・欲動・エネルギーが、全然湧き上がってこないのである。演奏を形容する「言葉」が全然見つからないのである。それは、演奏の最中には「なかなか名演かも」と思っていたコンサートの場合にも当てはまる。あまり言いたくはないが、直近のフィリップ・ジョルダン/ウィーン響もそう、エッシェンバッハ/N響のブラームスもそうである。両者とも、演奏の真っ最中は、それなりに手に汗握ったのだが…。逆に、直近で会心の特大ホームラン級のパフォーマンスと言えば、間違いなく広上/京響のラフマニノフである。あれは文句なしにすごかったし、今も鮮明に覚えている。もう少し射程を広げれば、去年の今ごろ西宮で聴いたヤンソンス/BRSOのマーラーの9番も言語を絶する崇高な音楽体験だった。

こういう塩梅なので、何かしらの形で批評を展開しなければならない「プロ評論家」は本当に大変だと思う。レコ芸の器楽批評は「特選」の大盤振る舞いになるのがもっぱら慣例化しているが、それもよく分かる。それはさておいて、岡田氏が演奏のよしあしを最終的に分かつ基準として(特に指揮者に対して)挙げるのが、「何か言いたいことを持っているか」という、たったこの1点なのだという。これまた、自分自身100%同感である。

愛好家は、(実在しない)各楽曲の「イデア」を念頭にその曲を聴くのであり、もちろんそのイデアは個々人で千差万別だから、普遍的な名演奏の定義など不可能なように思えるが、とは言え、コンサート終演後の客席の大熱狂ぶりを見るにつけ、「やっぱりこれは名演奏だったんだな」と確信を深めることはよくある。ヨーロッパ放浪も含めて、浴びるようにコンサートやオペラに接してきた自分が、「こういう体験をするためにコンサートに通うのだ!」と全身で実感できた(これまでで最高の)コンサートを1つ挙げるとすれば、2009年に京都で聴いたシャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるマーラーの『巨人』であり、それ以来、この『巨人』が自分の中の音楽センサーの感度を確認する“基準楽曲”になった。

岡田氏の論に依拠して言えば、その点で先日のジョルダンの『巨人』は颯爽としてスマートだが、演奏が終わるとともに(まるでコーラの炭酸が喉を通る時点では気持ちがいいが一瞬で収束するかのように)印象が消えてしまったのは、ジョルダンが「何を言いたいか」がよく分からなかった、という点に尽きるのだと思う。この辺、巧みなのがインバルである。「言いたいことを言うために指揮をする」というスタンスが明瞭極まりないので、大胆なルバートやアゴーギグで音楽に揺らぎを与えても、背骨が貫徹するのである。この春聴いたインバルの『巨人』も素晴らしかった。

シャイーの『巨人』に話を戻せば、そこには生命感とエネルギーが(文字通り)横溢していたから素晴らしかったのであり、その音楽に、30歳のマーラーがあらん限りのパッションで詰め込んだ「生命の大賛歌」をビシビシと感じ取ったから感動したのである。『巨人』の場合、後続交響曲の『復活』でドロドロと描かれる死との葛藤をイメージすれば、『巨人』に発露されているマーラーの若書きの息吹はなおさら感動を呼び起こす。シャイーやインバルの演奏には、言外にそういう「ナラティブ」をかぎ取ることができるのである。

実例に照らし合わせれば感想が尽きない。『クラシック音楽とは何か』は、そんな刺激的な1冊だった。

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