【本の感想】鷲田清一×山極寿一 『都市と野生の思考』(集英社)

備忘録として、本の感想を少し。『都市と野生の思考』という新書で、かつての阪大総長で哲学者の鷲田清一氏と現京大総長でゴリラ研究者の山極寿一氏の対談本である。レヴィ=ストロースの『野生の思考』に引っ掛けたタイトルが気になり、何より専門分野の異なる2人の語り手の魅力に惹かれて手にとった。大きな方向性としては賛同できる箇所も多く、「なるほど」と唸る部分もあったが、どうもしっくりこない論も多々あり、その意味では刺激的な一冊だった。

面白かったのは、国立大学の総長を経験した両氏が、今後のアカデミズムのあり方として、「上でもなく下でもない、水平の知」を志向している、という部分。つまり、かつての教養主義は(とりわけ明治期)、西洋絵画や宗教、さらには哲学・文学・音楽など、「上」ばかりを見ている節があった。一方、その後の動きとして、「足元の真理を求道すべき」として、京都学派に代表されるように、「下」ばかりを見つめるというベクトルがあった。これではいけない。つまり、アカデミズムとしても「嗅覚」を研ぎ澄ませた上で、あたかも冷蔵庫の残り物から逆算して最適な家庭料理を提供するような感覚で、今ある状況から分野横断的に最適な知を提供できる、そういう「水平な知」が求められている、というのだ。原発事故時の専門分化されたアカデミズムのあり方が批判的に考察されているが、この部分には激しく同意。これは、別にアカデミズムが必要以上に世間に膾炙されねばならないという話ではなく、単なる「知」が生きる「知恵」として社会に根差さなければならないという、両名の気骨を感じる論である。なにせ、京大や阪大にはまさしく「象牙の塔」にこもるかのごとく、世間と隔絶された研究者もいるであろうから…。

もう一点、鷲田氏のスマートな言いぶりに唸らされた部分がある。障害者の自立支援をめぐる世間の潮流への言及である。曰く、世間で語られる自立支援のあり方は、independence=非依存である。つまり、何かにdependentでない状況を指して「自立」と定義する。しかしこれは違う。障害者が何から何まで1人でできるようにハード面を整えるのではなくて、相互依存のネットワークを必要に応じて使い分けられる状況、つまり、interdependenceという自立のあり方を目指すべきであるというのだ。この感性のしなやかさと論の説得力に舌をまく。おっしゃる通り。ぐうの音も出ない。

その上で、この本には色々と違和感を抱いた。この両名は、印象として、随分と過去志向的である。(多少誇張して)要約すれば、こんな具合である。理想的な社会・コミュニティとして、改めて京都に目を向けるべきだ。そこには祭りがあり、年齢や役割に応じたファッションがあって、(いい塩梅に)個人のあり方が秩序化されており、歴史の重層性が木の年輪のように街の性格を形づくり、そして、ちょっとしたことでも相互に声を掛け合うような昔ながらの日本の風土が根付いている。それに比べて、均一なニュータウンや、デジタル化された社会の中で隔絶された「個人」「家」のあり方の、なんと味気ないことか。昔は老若男女が集う銭湯こそが公共の場で、そこで子どもは知らず知らずのうちに「世間」を会得したものだが、いまの若者のコミュニケーションはスマホに矮小化され、互いの感情伝達は「いいね」だけ。感性が摩耗している。生きがいは個人で見つけて追求するものだと勘違いしているが、本来は他者との関係性の中でこそ見出せるもの。心配になる。ただ、希望の萌芽もある。行き過ぎた都市型生活への身体的・生理的違和感から、若者の中には新たな動きが出てきていることだ。それは、IターンやUターンによる田園回帰現象であり、シールズなどに代表される政治行動での連帯である…。

この手の社会論は、散々語られてきたことであるので、さしあたって驚きもないが、まずは理想の社会像をなぜ京都に限定する必要があるのか、ここから全くわからない。

確かに、京都はいい。自分も、2ヶ月に1度くらいは比叡山の麓の寺に赴いて、ボーッと庭を眺めて、なんとなく精神を統一し、その後、自転車で京都の街を爆走サイクリングするのが習慣になっている。それだけ、なんとなく感情をリセットするには、京都はいい(この感情を「リセット」することへの批判も、本書では展開されているのだが)。

その上でだが、そもそも、そうした地域社会のあり方を、なぜ理想とする必要があるのだろうか。別に京都があって、東京があって、北海道や沖縄があって、それが雑多に共存していればいいではないか。

自分自身の明確な意見だが、それぞれの都市・田舎には、それぞれの良さがあり、その良さを、自分の心地いいように、抽出して生きられるのが理想だと思っている。つまり、みずからの「住まい方」を、カスタマイズできる時代になればいいなと思うのである。

例えば、一流のコンサートに触れたければ、やはり東京は恵まれている。これだけプロオーケストラがたくさん身近にあって、少し時間ができればお好みで選んで聴きに行ける。最高の贅沢である。さらには、一流の学者が解放しているような「私塾」が無数にある。こういうところで、思わぬ「知」と出会って触発され、それが仕事などにも還流し、総体として、人生そのもののありようが高められる。こうした都市型の「住まい方」は、これはこれで病みつきである。

そして、同時に感じるのは、都市は「消費」と密接不可分(いや、同化している)という側面である。つまり、常に消費しないと生きていけないのが都市である。その消費の最大の対象は、「物質」ではなくて、実は「時間」である。休みの日、東京の繁華街には若者から初老に至る多世代が溢れかえっているが、巨大な紙袋を両手いっぱいに抱えている。休日に物質を消費するというあり方において、「時間」を消費しているのである。逆に言えば、物質を消費することでしか、時間が消費できない、つまり、「時間が潰せない」のである。それが、都市の苦しさだと思う。

その意味で、恵まれているのは、「田舎」である。田舎ほど、「時間の潰し方」に恵まれた場所はない。かつて、ある島の浜辺で、午後ビールを飲みながら友人と雑談をしていたのだが、あっという間に日没になった。魚を釣るであるとか、農作業をするであるとか、食材を時間をかけて料理するだとか、そういう楽しみ方に関しては、田舎は筆舌に尽くしがたいほど「豊か」である。が、ずっといると、それはそれで退屈する。「都市型」と「田舎型」のベストミックスが理想としてあるのだが、なかなかそうは難しい。

そこで、例えば、こういう考え方ができる。「都市と田舎を、比較的行き来自由になるような生き方を可能にすればいい」。アウフヘーベンの発想だが、今もっぱら巷では「2拠点」や「3拠点」の生活を始める社会人が出てきているわけだし、養老孟司氏が「現代の参勤交代」を説いていることも周知の事実である。それには現実問題として金がかさむが、そういう生き方を税制などで優遇していくことを行政に提案していけば良いだけのことである。「いや、仕事があるから多拠点生活などできない」との反論があれば、テレワークなどをどんどん可能にすればいいし、もしくは、平日に都市にすし詰めでなければできない(生理的におかしな)仕事をスクラップすればいいだけのことである。

IターンやUターンを推奨する有識者はたくさんいるが、いつも感じるのは、若者をモルモットのように見るパターナリスティックな視点である。「都会の異常さになぜ若者は気づかないのだろうか。あ、気づいた若者が出てきて、農村回帰を始めたぞ。ようやく物分かりがいい若者が出始めたようだな」。あたかも自らの温感センサーの感度を確認するかのごとく、また、毒ガスが満ちているかを確かめるために小鳥を放つかのごとく、自らは安全地帯に身を置きながら、「大所高所から」若者の趨勢と動向を分析する。

先ほど言ったように、都市型の生活の恩恵を享受した若者にとって、農村回帰の決断は、そう容易いものではない。私も疑似体験したことがあるが、夜、街灯のない真っ暗な田舎で一晩明かすことの恐怖(?)は、言語を絶するものがある。そのリスクを承知の上で農村回帰する若者の心理のヒダを捨象し、動向だけを切り取って評価したところで、いくらその論自体が正当性を持っていたとしても、読んで気持ちのいいものではない。

大学空間に代表されるような「多様性のあり方」を、社会におけるリベラリズムの気風として敷衍していこうと考えるならば、肝要なことはただ一点、「理想像(ロールモデル)」を措定しないことであると思う。

以前も雑文に記したことがあるが、リベラリズムは「他者に対する100%のフェアネス」という定義が可能であるという。その前提は、「あなたと私は違う」という、差異性の相互承認である。農村回帰する若者もいていいが、都市に「遡上する」若者もいていい。それぞれが、それぞれの動向を相互に尊重し、それぞれいい意味での「無関心」を決め込めばいいだけである。他人の動向に過剰に左右されなければいいだけである。重要なのは、「自らの感性に素直に行動すること」であり、社会規範や社会常識を自己の感性の元に洗い直して見据える「しなやかさ」であると思う。そして、社会制度上「生きたい生き方」が不可能であると思うのならば、それが可能になるよう何かしらのアクションを起こせばいいと思うのである。肝要なのは、都市や社会のあり方を問い直す前に、個人の生き方をラディカルに見つめ直すことであると確信する。

AIや IoT含め、社会は格段に進歩している。過度な物質文明には批判的であるべきだと思うが、物質文明の恩恵は「好きなように」享受して生きていけばいいと思う。鷲田・山極両氏は携帯やスマホ文化にかなり否定的だが、だからと言って、「電気の暮らし」をやめて「火の時代」に戻った方がいいとは絶対に思わないだろう。物質文明がもたらした豊かさは、時間などの新たな「余剰」を個人にもたらすメリットが必ずある。そこを個人の生きたいように生きられるのが現代の素晴らしさだと思うし、そこで現状否定をして過去志向的に“京都的なるもの”を懐古することに、自分は意味を見出せない。コミュニティのあり方を含めて京都が理想的だと思うなら、京都に住めばいいだけ。何も、日本社会全体を“京都化”させる必然性は皆無なわけである。

長くなった。改めて要約するに、本書に抱いた違和感は、大学的なリベラリズムの気風こそが重要だととく両者の論が、どうもパターナリスティックであり、反リベラリズム的である、という点に凝縮される。多様性の原点は、自己と相手の徹頭徹尾の「相互保証」にあり、その意味では、自己の感性は鋭敏に研ぎ澄まし、その感性を的確に表現する表現力(それは言語も身体表現もだろうが)を身につけ、それを他者に主張する意志を持ち合わせ、同時に他者の論に「本気で耳を傾け」、時には自説を柔軟に修正する、そんな個人のあり方が大事になってくると思う。世代間の断絶を、(目くじらを立てたり憐憫の目で見たりするのではなく)断絶として是認した上で、それぞれが先入観のない「対話」を重ねながら、「よりマシな」社会を築けていければいいと思うのだけれど…。

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