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zoom RSS 【本の感想】『属国民主主義論』(内田樹・白井聡著/東洋経済新報社)

<<   作成日時 : 2017/01/03 21:51   >>

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「思想的な色眼鏡で社会を見ることはやめよう」と日々心がけてはいるのだが、とは言え、現在の“リベラル”の言論の弱さには、心の底からため息が出る。“保守”を自認する人たちの言説は、盲目的なまでの自己肯定と徹底的な排他に満ちていて、ちょっと目も当てられない。そこに論はない。ところが、民主党政権時代に「わが世の春」を謳歌したリベラルは、安倍政権の誕生という究極的な挫折を経て、完全に自信喪失に陥り、機能不全に陥ってしまった。

なぜいま保守の論壇がこれだけ強く、リベラルはこれほど蔑まれるのか。一つ明確なのは、保守の言説がきわめて感覚的で、肉感的ですらあるのに対し、リベラルの言説は、アタマからひねり出され、「身体の延長の言葉」となっていないということだ。「そんなの、あんたの頭の中のキレイ事でしょ」と一蹴されてしまえば、ぐうの音も出ないのが、リベラルの弱さだ。今後、議論のアプローチを変えていかなければ、リベラルは死に絶え、消え去ってしまうかもしれない。個人的には、この現状に危機感を抱く。

そんな中で、現代の日本のリベラル論壇の数少ない泰斗の一人が、内田樹氏だ。本人は「保守主義者」を自認しているが、相対的な色分けとして、リベラルと数えさせてもらう。

内田氏の言説にも、理想論に偏り過ぎだと感じる部分はある。それでも、この人の書く文章は、とても面白い。要は、「地に足が着いた論」なのだ。他者のコメントを切り貼りした空想ではなく、自分の頭で考え、自分の身体で紡いだ等身大の言葉を語っている。だから、そんなに“サヨク臭い”感じがしない。そこが面白く、新しい。

『属国民主主義論』と題された、白井聡氏とのこの対談本は、冒頭こそ、対米追従への問題提起だが、現代社会への警鐘が、様々な形で論じられる。政治制度や共同体論など、話は次々に展開するので、そんなに議論に一貫性は感じない。でも、個々のケーススタディは、地に足が着いていて、惹かれる部分も多い。

この本で一番面白かったのは、「日本人は身体性を取り戻せ」という部分。日本の暮らしは都会化し、機械化し、もはや自然は日常から失われつつある。そんな都市に残った最後の自然は、人間の身体だ。自然と向き合うつもりで、みずからの身体に向き合い、身体性を取り戻すべきだ、という、やや雲を掴むような話。

でも、この話、とてもよく分かる。いまの日本社会は、自然としての身体に向き合わなくて済むよう、隅々まで設計されていると感じるのだ。

先日、身内が他界した時、驚いた。その「死」を実感できるかできないかのうちに、遺体は「おくりびと」により死化粧を施され、白装束を着せられ、葬儀場に運び込まれ、葬儀ディレクターによる立派な葬儀で見送られ、荼毘に付され、いつの間にか骨になってしまった。セレモニーホールで個人の思い出話をする時間が取って付けたように設けられ、知らぬ間に、見送りの儀式は終わっていた。全てが終わった時、「自分は、本当にこの人の“死”を受容できたのだろうか」と、巨大な疑問にさいなまれた。親しい身内の、究極の人間的な行為である死が、いつしか医療や専門業者に100%アウトソーシングされ、みずからの暮らしから、完全に切り離されている。社会の専門分化が進んだことで、「死」という人間の究極的な真実にも、向き合わなくて済むようになったのだ。葬儀とは、個人の死を、生体的に実感し、受容することに意味があるのではなく、儀礼として「こなす」プロセスそのものに、価値が置かれるようになっている。

上記はあくまで自分のケースだが、このような「身体性の喪失」が、社会の一つの病理だという指摘は鋭い。経済がまさにその典型だ。豊かさとは何か、金とはと何か。目的を見失い、成長が自己目的化した経済が、「何となく」の雰囲気で、日本を、世界を突き動かしているという違和感。本書で内田氏が語る、大阪のタクシー運転手の逸話が面白い。その運転手は、「リーマンショックの直後から、めっきり客足が遠のいた」のだと言う。しかし、アメリカの証券会社の破綻が、そんなにすぐに大阪の景気に実体としての悪影響を及ぼすはずがない。要は、「海の向こうで、ヤバいことが起きた。これから大変になるっぽいから、タクシー乗るのやめて、駅まで歩こう。その方が健康にもいいし」というのがタクシー離れの正体だというのだ。多少荒っぽいが、景気なんて確かにそんなもので、それがトランプ相場の正体だったりする。アダム・スミスが『道徳感情論』で述べたような公正な市場なんて、いまの経済に望むべくもない。生身の自分自身と向き合うことを避け、自らの身体性を切り離し続けた結果、「ショッピングで何を買うか」でしか個性を発露できないような、貧相な社会になってしまった。内田樹 氏のこの大掴みな指摘に、現代社会の抱える究極的な病理の一つが、凝縮されていると感じる。

内田氏は、自らの身体と向き合うため、武道と能をやっているという。しかし、自然としての身体は、子育てからも介護からも感じることができるという。社会とは、生身の人間が生きている場なんだという当たり前のことを、自分たちは忘れかけているのかもしれない。

ちなみに、この本は、「もう経済は成長しない。みんながそれを理解し、成長を捨てないと。」という論が強調され、結ばれる。冒頭に書いたリベラルの言説の弱さは、こう言い放ってしまうところに出ているとも思う。たしかに正論かもしれない。しかし、経済成長は、安全保障と表裏一体だ。「経済成長は手放します」と言った瞬間、中国が尖閣を乗っ取りに来るリスクを、保守は騒ぎ立てる。主権としての領土を維持し、日本人を守るには、あくまで、「世界の真ん中で輝き続けなければならない」というのが彼らの理屈だ。リベラルからすると、それは虚勢だと唾棄したくなるかもしれないが、冒頭述べたように、保守の人々の感覚は、極めて“肉感的”だ。彼らにとって、領土とは国家主権そのものであり、国家とは暮らしそのものなのだ。「経済成長しなくてもいいということは、日本が弱くなっても良いということであり、領土がいらないということだ、売国奴だ!」という、論法で迫ってくる。

いまリベラルは、そんな“肉感的”な保守と正面から向き合い、説得しなければならない宿痾を抱えている。そんな時代なのだ。

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