酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

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zoom RSS 【CD評】ギドン・クレーメル(Vn) バッハ 無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ

<<   作成日時 : 2017/02/13 11:46   >>

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チョン・キョンファのリサイタルが転機となって、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータが、自分の人生への贈り物のような音楽になってきた。毎日聴きあさっている。ちょっと前までは、抹香臭い音楽だと感じて、やや遠ざけていた。何という変節だろう。この変わり身の早さが自分でもイヤになる。ただ、それだけチョン・キョンファからのサジェスチョンが大きかったということにもなる。感謝を尽くさねばならない。

CD蒐集癖だけは旺盛で、この曲のCDも、これまでかなり集めてきた。いまアーカイブスから引っ張り出して逐一聴いているのだが、これが面白い。ヴァイオリンという楽器は小さく、奏者の身体と一体化しているようだから、「奏者その人を聴く」という色合いがとても強い(と感じる)。ピアノのような複雑な構造体とは異なり、「奏者と音の距離が近い」ので、どんな音色を志向しているのか、非常に分かりやすい。サルヴァトーレ・アッカルドやウト・ウーギといったイタリア人ヴァイオリニストたちの恐るべき美音に酔いしれ、ギル・シャハムの究極の洗練に心奪われ、五嶋みどりの不意打ちの「軽さ」に膝をうつのである。

たった1枚だけ、耳が一切受け付けない演奏があった。あろうことか、天下の大名盤(とされている)、ギドン・クレーメル盤(新盤)なのである。聴き始めた瞬間、途方もない不快感が身体の奥底から溢れ出るように湧き上がってきた。途中から呼吸が苦しくなり(演奏がすごいからではない)、ステレオに一目散に駆け寄って停止ボタンを押した。

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不快感を言語化するのは至難だが、これこそ、バッハの抹香臭さだけを抽出した究極の演奏ではないか。ヴァイオリンの出す音の中で、ハリガネのような貧相な音が一番不快だが、その不快音に貫かれ、聴いているだけで頭がおかしくなりそうだ。

音も音だが、その表現も不自然で作為的極まりない。最強音・最弱音を、ネオンサインのように明滅させる。あぁ、なんと不快なのだろう!人間の生理、と言うとさすがにおこがましいが、少なくとも自分の生理の真逆だ。クレーメルという人はなんと素直でない、ひねくれた人間なのだろう。

音楽を聴いてここまで不快になったことは最近なかったので、試みに何冊か音楽評論家の意見を繰ってみたが、やめておけばよかったと後悔した。ポルノと言っても過言でない、大絶賛の嵐だったのだ。評論家集が投票形式で「ベストディスク」を選ぶという趣旨の本では、2位のヘンリク・シェリング盤にダブルスコア以上の差を開けて、ぶっちぎりの1位、ということになっている。信じられない。

また、Yという人が書いた「名盤鑑定百科」という本も調べてみた。このYという人は、恐ろしいまでのCD・レコード蒐集能力があり、「プロ蒐集家」と呼ぶにはふさわしいが、肝心の音楽評論と、各曲に付随する「音楽エッセイ」が、残念ながらまったく記憶に残らない。

そして、そのYのクレーメル盤評がこれまた大絶賛の嵐で、辟易した。あろうことか、一口コメント欄には「志が高い」とまで記されていて、不快感が頂点に達した。

Yという人は音楽を聴きながら、奏者の「志の高さ」を聴いているらしい。では、「志」とは一体何なのだろうか。Yの意を忖度するに、バッハの「精神性」に一歩でも近寄ろうと、ギリギリと求道に徹する、ということであろう。自分を切り詰め、肉体を切り刻み、精神を収斂させバッハに向き合っている、ということだろう。クレーメルほどの人になれば、たしかにそういう演奏を目指しているかもしれない。

では、仮にそうだったとして、なぜYにはそれが分かるのだろうか。演奏を聴き「志の高さ」を感じられるということは、その志の行き着く先、すなわち「到達点」を、Yが了解していることになる。なんでそんなことができのだろう?バッハの「精神性」が、Yに内在していないと、「志が高い」という批評は成立しない。この時点で、この批評は破綻している。どれだけのバッハ・フリークでも、バッハ一族の末裔でも、大バッハの「精神性」など、心でも身体でも分からないはずだ。

さらに言えば、バッハの「精神性」に一歩でも近づくことが、なぜ「志の高さ」につながるのかということも私にはわからない。誰もが聴きやすい普遍性を求めて、美音を振りまきまくることは、「志が高くない」のだろうか。仮に、奏者がそういう演奏に向け、自分を切り詰め、肉体を切り刻み、精神を収斂させていても、バッハの「精神性」に近づいていないからダメだということなのだろうか。ひょっとすると、大バッハは美音だらけの演奏を望んでいたかもしれないのに。「志」とは、ますます意味不明だ。

Yにクダを巻くようなことを書き連ねたが、数多いる評論家たちも、雪崩を打つようにこのCDを絶賛し、おそらくYと同様の理由で、クレーメル盤を評価しているのだろう。あぁ、つくづく音楽とは自分の耳のみを信じるに限る、と思う。何の根拠も論拠もない「志」に勝手に鑑賞の軸を設定してしまい、それに自縄自縛されながら、ひとりでに「感動」しているその空虚さが、身震いするほど滑稽で、かつ恐ろしい。そうした人々が、「ベスト・ディスク」などと言い、投票形式で、演奏の優劣を可視化するということは、そのくだらない感性を押し売ることであり、ピュアに音楽を聴くリスナーの感性を(ガラクタ色に)染め上げることだ。これは最もタチの悪いファシズムではないか。そういう評論家など、リスナーにとって百害あって一利なしだ。

先日も、不快極まりない評論記事が毎日新聞に出ていた。ポゴレリチのリサイタル評で、素性を知らないUという人が書いていたが、恐ろしいまでの駄文で、読んでいる方が顔から火が吹くほど恥ずかった。「素足でアスファルトの上を歩くようなあの感覚」みたいなくだりがあったが、どんな感覚なのかまったく分からない。何よりその表現がポゴレリチの音楽と1ミリも結びつかない。そんな駄文を、しかも新聞紙面上に、よくぬけぬけと掲載できるものだとあきれてしまった。

音楽評論で食べていくのだったら、少なくとも、音色や音楽表現が情景のように浮かぶ、つまり右脳に働きかける文書を書くことを何より心がけてもらいたい(その点、故 宇野功芳氏は見事だ)し、無性に「聴いてみたい」と感覚に訴えかけてくる文章を書いてもらいたい(先日の日フィルの公演プログラムに載っていた舩木篤也氏の文章は素晴らしかった)。「志」なんてただの自己欺瞞であり、耳で音楽を聴いていない証拠ではないか、とすら思ってしまう。

クレーメルから大きく話が離脱した。結論として、「私にとって」、クレーメル盤は不快な演奏であり、それに輪をかけて、日本の音楽評論家たちの文章は不快の極みである、ということだ。

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