酔いどれ音楽&読書日記―一人の愛好家の独白

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zoom RSS ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 『復活』ほか  7/15

<<   作成日時 : 2017/07/16 12:14   >>

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実は、『復活』実演は初めて。ジョナサン・ノットという優れたマーラー指揮者が東響で振るということで、満を辞してミューザ川崎に向かう。ノットがバンベルク交響楽団を振ったマーラー全集はお気に入りのCDで、とりわけ声楽入りのナンバーの鮮やかな捌き方が印象的だったため、東響ではどうかと期待も高まる。

前プロは、細川俊夫氏の『嘆き』。デュトワ指揮のN響により、ザルツブルク音楽祭にて、しかも独唱にプロハスカを迎えて初演された作品で、東日本大震災がモティーフとされた20分超の大曲だ。静謐に曲が始まり、特殊な奏法による打楽器が不気味な音響で迫ってきて(太鼓を紙でこするなど、不思議な音響効果)、グリッサンドを続けながら高まっていく弦など、異様な不気味さがある。最後は消え入るように、魂が浄化されるかのように、音が無化されていって幕となる。比較的標題性がはっきり生きていると思ったし、特筆すべきは、藤村美穂子の独唱の素晴らしさ!朗唱部分の不気味さに、絶唱部分のど迫力!さすが、本場で大役をはるだけの実力の持ち主だと大いに納得した。作曲者も会場に姿を見せており、大きな拍手に応えていた。前プロから、幾度にわたってもカーテンコールが繰り返され、なかなかの盛り上がり。

後半は『復活』。舞台から溢れかえる大編成の楽器群に、パイプオルガン前のポディウム席を混声合唱が埋め尽くし、壮観である。

それにしても、この交響曲、今でこそ古今の交響曲の中で大名曲として立派な座を占めてはいるが、改めて聴いてみると、とんでもない“怪”音楽である。マーラーはまさにやりたい放題、自分の感情と激情の限りを音楽の中に投入し、ある意味自分勝手極まりない。90分近い演奏時間の中で、聴衆はマーラーの感興のほとばしるまま、まさに、アップダウンが猛烈に激しいジェットコースターに乗せられ、心身を揺さぶられ続けるような趣である。

『巨人』で習熟したようなフレーズやリズムの刻みなども散見されるが、マーラー自身が齢を加えるにしたがって深める人生への懊悩を、前衛的かつ実験的な書法で、とにかく未処理・未消化のままでも、すべて譜面にぶっこんだような激しさだ。この点、演奏時間と楽曲規模がさらに長大化する第3番の交響曲と比較しても、2番の複雑さと前衛性が際立つし、実は、マーラーの交響曲の中でも、とりわけ“聴きにくい”音楽ではないか、などとも思ってしまう。

ノットの指揮は、終始視界良好なもので、あまり情念的な音楽づくりではない。東響の音は、どちらかというとクリアな清涼感が持ち味で、故・宇野功芳氏の表現に倣って言えば、「アサヒスーパードライのような音」である(いい意味で使わせてもらっています)。雑味がなく、切れ味鋭い。ただ、コクや深みとは一歩距離を置く。今日のマーラーの音もそんな印象だ。先日の新国立劇場の『ジークフリート』のピットに入った東響の音は、あまりワーグナーに適性があるようには感じなかったが、正直、今日のマーラーでも、もう少し音に複雑な含みがあってもいいのではないか、という印象を抱いた。それこそ、ノットと入れたブルックナーの録音など、音があまりにも「響かず」、かなり肩透かしを食らったものだ。このオーケストラ、どちらかというと、古典派などの方が向くのではないかと思う。アンサンブルの精度が高く、弦の透明感がなかなか美しいからだ。なお、きょうの演奏では、アマチュア・オーケストラばりに金管が凡ミスを連発していて、さすがに「どうか」と思った。

ノットは、この超難曲を、やすやすと暗譜で振ってのける。天才的だ。この音楽、何せめまぐるしいまでに“ギアチェンジ”が激しく、強烈なアッチェレランドとクレッシェンドを決めて見せた直後に、大胆なルバートとディミヌエンドで音楽を収束させるなど、超絶的に高度な解釈ならびにバトン・テクニックを指揮者に強いる。もう、指揮者泣かせこの上ない音楽である。ノットのバトン・テクニックは、一昔前は「クライバーを彷彿とさせる」と讃えられていたが、今やかなり抽象化されていて、あまり明確にキューを出したり拍子を刻んだりすることなく、宙空で指揮棒が複雑な幾何学文様を描き続けているような趣である。オケの側も、解読するのがやや大変ではなかろうか。それでも、あれだけのアンサンブルの精度を示すのは、ノットと東響のコンビネーションがすっかりと板についたからでもあるのだろう。

マーラーは、とにかく30代前半にして、『ヨブ記』的な人生の艱難辛苦に悶絶を極めていて、その懊悩の限りをこの交響曲に詰め込んでいる。『原光』の歌詞、そして第5楽章で繰り返し問いかけられる「生の意味」など、マーラーの苦悩は痛々しいまでに音楽に投影されている。そして、「死」を経た後の「復活」を確信できたことによって、音楽は爆発的に輝かしい一大クライマックスを形成して、圧倒的な終結に至るわけであるが、よくよく考えれば、「現世」での懊悩は決して解決されず、「復活」による来世を確信できたことをもってマーラーがこの交響曲を閉じていることを考えれば、決してハッピーエンドの音楽ではない。「暗→明」という流れで、シンプルに語られることの多い音楽ではあるが、その「明」自体も、本質は、「暗」自体を誤魔化し、無理やり転化させたもので、本質的には「暗」である、という視座が必要ではないか、と感じた。鬱の人間が、無理やりみずからを躁へと変転させるような、そこはかとない空虚さを強く感じた。

大音響の中での終曲は、もちろんそれなりに感動できるもので、終演後は気持ちよく拍手を送った。感動はできたが、どこか未整理な部分も多く、これが演奏によるものなのか、はたまた『復活』という音楽そのものによるものなのかは、よく分からない。ともにコンサートを楽しんだ音楽仲間が、「すごくロックな曲だよね」と言っていたのが印象的。終演後、川崎の街に繰り出して初めて川崎飲みをしたが、渋谷のセンター街ばりに栄えた歓楽街に驚愕。清濁併せ呑んだユニークな街である。

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