【本の感想】上野千鶴子×山折哲雄 『おひとりさま vs. ひとりの哲学』 (朝日新聞出版)

鷲田×山極対談に不満を覚えていたところ、そのモヤモヤを吹き飛ばす痛快無比な一冊と邂逅し、目が醒める思いでいる。社会学者・上野千鶴子と、哲学者・山折哲雄の対談、名付けて『おひとりさま vs. ひとりの哲学』である。このタイトルの肝は、「vs.」である。つまり、「おひとりさま」と「ひとりの哲学」が相対し、互いに論駁を試みるという趣旨である。両者のスタンスはどう違うのか…はさて置くとして、結果は上野が「圧勝」している。というのも、20歳近く年長の山折氏に対して、何の“忖度”もなく思いの丈をどストレートにぶつけまくっているからである。そして、山折氏はその上野の毒矢を全て正面から受け止めている。人が抜群にいいのである。そんな両者の息遣いまでもが聞こえてきそうな、最高に刺激的な一冊である。

「おひとりさま」は、上野が社会に爆発的に普及させた「概念」だ。古来ネガティブで孤独なニュアンスがつきまとってきた「ひとり」に、「お」と「さま」をつけることでその実態を変質させた。上野は他者との運命共同体としての人生をヘドが出るほど嫌っており、そのあまりの徹底ぶりに苦笑が漏れるが、言わんとしていることは納得もできる。

結論めいたことから言うに、「おひとりさま」と「ひとり哲学」は何が違い、どこが対立軸なのかと言うと、後者が「おっさんの思想」であるという部分に凝縮される。この「ひとりの哲学」は、山折氏が著して2万5000部売れている選書のタイトルなのだが、要は男の老年の境地と美学として、西行や種田山頭火に代表されるような“ひとり”の生き方の高潔さを説いたものである。そして、上野は、こうした「おっさんの美学」をここぞとばかりに徹底糾弾しており、山折氏がたじろぎまくっているのである。

上野の指摘は鋭い。要は、「おっさんの“ひとり論”」は、おっさん特有の鼻つまみモノのナルシズムでしかない、と言うのである。山頭火に「うしろすがたのしぐれてゆくか」と言う歌があるが、自分の後ろ姿なんか、自分で見られるはずがない。ところが、おっさんは適当な「第三者の目」から“ひとり”で黄昏れる自分の姿を見つめ、そこに酔いしれているだけ、と言うのである。そして、事あるごとに「野垂死にたい」と口走っておきながら、結局は1人で野垂れ死ぬことなど到底できず、結局は他者(女性)の手助け(家事力・介護力)を前提にして、空虚な物語としての“ひとり”の理想論に浸っているのだと言う。「ひとりの哲学」を貫徹するのは、男の性的優位性を無意識下に前提化する視点なのである。そして、おっさんが「野垂死にの思想」に酔いしれている裏で、女性はたくましく「生き延びる準備」をしているのだと言う…。

この上野の論には、爆笑しつつも大いに納得させられた。と言うのも、かつて身近にこんな話があったのである。2年ほど前だったか、ある田舎の町で、地域医療のあり方に関する集まりに出たことがあった。巷では、「病院から在宅へ」の大号令のもと、在宅医療・在宅介護が推進されている最中である。医療・介護従事者が自宅に出向いてサービスを提供する流れを、その集いの1人の参加者は、以下のように喝破した。「在宅医療だ、介護だ、と言うが、昔はそんなこと、全て自宅でやっていた。しかも、それは家族であったり、ご近所の人たちが、代わる代わるで面倒を見ていたんだ。だから、人間の看取りが日常の中に溶け込んでいたし、それを地域で支えていくという共同体の絆があった。ところが、今や医療保険だ、介護保険だと言って、サービスとして全て外部化してしまっている。このサービス化の流れは、共同体や地域コミュニティのあり方を、逆に破壊してしまっているではないか!」。この発言をしたのは、初老の男性(上野に言わせれば“おっさん”)だった。

告白すれば、私はその男性の怒りに満ちた意見具申に、すっかりと胸を打たれてしまった。「確かに、そうだ。サービス、サービスといって、全て外部化してしまうことが、地域コミュニティと言う社会資本・地域資源を破壊してしまっているのだ。なんと愚かしいことなのだろう…」。しかし、その後、上野のある論考に触れて、自らの考えを改めざるを得なくなった。上野の論は、以下のようなものであった。「医療保険・介護保険制度の流れが、地域コミュニティを破壊する、といった趣旨の批判をする人がいるが、たいていは“おっさん”である。そんな地域コミュニティなんて、とっくの昔に壊れているのに、おっさんはノスタルジーに浸っている。おっさんはあくまで(家族や近隣住民からのケアを含めた)サービスの“受益者”と言う視点しかないので、ケアをする側の視点に立った発想ができない。サービスで外部化され、女性がケア労働から解放される。なんと素晴らしいことなのだろう。ケア労働がサービス化される時代になってよかった」。

上野の意見に100%賛同するわけではないが、この論考に触れ、自分は上野の論の方に大きく傾斜した。確かに、ケア労働がサービスとして外部化されたことで、自らの介護度に応じたサービスを、自らの資金力の範囲で、なんのためらいもなく目一杯受けられるようになった、とも捉えられるわけである。

地域コミュニティ再生論は、鷲田×山極の対談でもふんだんに語られていたし、その時代の記憶のある人なら懐かしみたくなるものなのかもしれないが、少なくとも生まれてこのかたの自分自身の記憶の中には、そんな「古き良き時代」の思い出は一切ない。逆に、想像するに、コミュニティの維持・管理は、それなりに面倒臭いと思うのである。例えば、互いにお裾分けをしたり、共同の草刈りに参加したり、相手の長期旅行中の庭の水やりや犬の散歩を代わりに請け負ったり…。絶えず関係性のメンテナンスをし続けなければいけない。その上で、この現代において、終末期の医療・介護的なケアまで地域コミュニティの中で分担していくなんて、実際問題として全く時代錯誤であると言わざるを得ない。だったら、いっそのことサービスとして外部化されてしまった方が気楽じゃんと、上野のように割り切りたくもなってくるものである。

「ひとりの哲学」を主張する山折も黙ってはいない。「そんなに“おひとりさま”“おひとりさま”と言うけど、足腰が立たなくなってからアメリカに行きたいとなったらどうするの?一緒に旅行できる小グループがあった方がいいんじゃないの?」。これに上野は、「介助者つけてひとりで行きます。介助者は友達じゃない」。

上野の論は終始この調子で過激でラディカルであるのだが、彼女の論には実践を伴った現実的かつ明瞭で透徹した思想の筋が貫いている。だから読んでいて胸がすく。説得的なのである。そして、「おっさんのエゴイズム」はじめ、激辛なワーディングも気味がいい。社会論から、思想・宗教論までを射程に収め、広汎な知を最大限に動員しながら論を展開していく構築力・推進力・破壊力は、さすがとしか言いようがない。もちろん、「ハッキリしている」がゆえに好き嫌いも分かれそうで、「このオバさん大っ嫌い」と言う人も数多いることは想像に難くない。上野は当然それを織り込み済みで論を貫いている。筋金入りなのである。

“口の悪い”上野であるが、この本の中で「死」について触れた以下のような一節があり、大いに引き込まれた。自らの経験に照らしても全く同感で、胸を打つ表現ぶりである。

“…絶対的に「ひとり」ですよね。わたしは死にゆく父を見ていてほんとにそう思いました。悪いけど、死んでいくのはあなたであって、わたしじゃない、あなたとわたしの間には絶対的な溝があって、どうしても越えられない。共感もシェアもしてあげられないなと思いました。”

上野の激辛の論の背景には、本来誰にでもある、身近な人物との別れなどの人生経験が、通奏低音として確実に流れている。だから、どれだけ口が悪くて過激な内容・表現でも、説得力があるのだと思う。

なお、山折氏の論には全く触れなかったが、山折氏もヨーロッパと日本における「神」のあり方の比較などで、目の覚めるような論を展開しており、さすがの碩学である。人柄の良さでは、圧倒的に山折氏に軍配が上がる。これほど寛容で愛嬌のある“おじいさん”、他にいるだろうか(詳しくはこの本のあとがき参照)。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック