セバスティアン・ヴァィグレ指揮 読売日本交響楽団 5/19

このほど読響の常任指揮者に就任したばかりのセバスティアン・ヴァィグレの演奏会を聴く。昔からちょくちょくN響を振ったりしているドイツの人、というイメージで、何年か前に、どっかの在京オケを振って、夏場にサントリーホールでドヴォルザークの8番をやったコンサートを聴いた記憶がある。この公演はまずまず良かった。が、それを補って余りある悪夢があり…。

あれは5年以上前だったか、東京・春・音楽祭で、彼が『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を振った公演だったが、客席にいた自分は、何度も意識を失うかと思うほど退屈してしまった。ワーグナーきっての歌劇を、とにかくただ生真面目に、愚直に、せかせかとやりました、という絵に描いたような一本調子の演奏で、とてもじゃないが耐えられなかった。こんなに遊びがある音楽を、どうしてこうもつまらなくできるのか、とある種の衝撃を覚えた。

そのトラウマがあるので、いくらドヴォルザークで記憶が上書きされたからと言って、そんなに安易に転向して彼の音楽性を信頼できない。猜疑心を持ちつつ、日曜午後、東京芸術劇場に足を運ぶ。

会場はご祝儀相場もあってかかなりの入り。プログラムは、まずロルツィングとかいうドイツの作曲家の、『ロシア皇帝と船大工』とかいう、聴いたこともない歌劇の序曲から始まる。まったく期待していなかったが、第1音を聴いて、少し胸を撫で下ろせた。「鳴っている時」のふくよか、かつ艶やかな読響の音がしたからである。東京芸術劇場で聴く読響は、他の在京オケとは随分とはまったく異なる、ゴージャスな響きで時たま度肝を抜いてくるのだが(カンブルランのチャイコフスキーなどが凄かった)、その片鱗を感じさせる音色である。きっとヴァィグレ、相性が良いのだろうと安心できた。曲は、メンデルスゾーンやウェーバーを足して2で割ったような所があり、景気づけには楽しい。

ついで、モーツァルトのピアノ・コンチェルトの21番。ソリストは、若手の女流、岡田奏。このモーツァルト、やはりヴァィグレらしいなと思いながら聴いた。とにかく、古楽の「こ」の字も感じさせない、堂々たる体躯のモーツァルトで、ヴァイグレの見た目そのものである。恰幅よくオケが鳴り、テンポは心持ち遅め。バスがよく響き、まさにオケの底を下支えする。こんな立派なモーツァルト、このご時世なかなかない。

岡田奏のソロも、ヴァィグレの伴奏に寄り添うかのように正確かつ粒立つタッチで、あまり強弱のニュアンスがない。美音には違いなく、耳には心地いいのだが、横のメロディ・ラインで聴いた時、あまりメリハリは感じない。オケの伴奏と相まって、正直、「丁寧」と「生硬」の間を行き来するような心象。その印象は、有名な2楽章で「生硬」の方に傾き、第3楽章が終わるまで覆ることはなかった。曲の良さは認識させてくれる演奏ではあったが、総じて、平板な感じもした。

岡田奏はアンコールにトロイメライ。なんといい曲!シューマン特有の甘さ溢れる名演だった。

後半はブラームスの交響曲第4番。ブラームスの交響曲はとにかく難しく、そのままスコアをなぞる演奏だと超絶的に単調で、聴いていられるものではない。そして、何よりオケのうまさがモノを言うので、このコンビの相性の良さを知るには恰好の、リトマス紙のような選曲だと思う。

このブラームスも、個人的な印象としては、やや「生硬」な印象がまさった。これまた、冒頭からバスの動きが明瞭に聴き取れて、各声部の分離は明快。響きも混濁させず美しいのだが、どうも心の核心には迫って来ない。1楽章の怒涛のフィナーレは、楽曲本来のエネルギーもあって涙腺崩壊寸前まで来たのだが、哀愁溢れる絶美の2楽章が意外と素っ気なく、弦のトゥッティによる後段の美メロも存外ドライだ。

第3楽章は硬質のティンパニが全体を引き締めてリズムも粒立ち躍動的だったが、第4楽章はどこに表現の力点を置きたいのかいまいち掴みかねる演奏で、気づけば終わってしまった。客席はまずまずの盛り上がり。

ハーモニーを築き上げたりする点においては、ドイツの本場仕込みということもあり、スペシャリストなのだと思うが、やや生真面目な感じが気にかかる。これから共演を重ねる中で、オケの側がどんどん「あそび」を仕掛けて行って、より刺激的な瞬間が生まれていけばいいなと思う。これからも楽しみに聴いていきたい。

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